第4章
恋と勉強の天秤

# 第4章「恋と勉強の分岐点」
放課後の廊下は、昼間のざわめきが嘘みたいに静かだった。
補習室のドア、三〇五号室。ノブに手をかけた瞬間、なぜかいつもより重く感じた。深呼吸ひとつ。押し開けると、窓から差し込む夕方の光が細長く床に伸びていて、その先に坂本先生が立っていた。
「あ、来た来た。じゃあ始めようか」
図面をテーブルに広げながら先生が言う。その声って、なんでこんなに耳にすっと入ってくるんだろう。授業中の説明だって、同じ内容のはずなのに、ここだと二倍増しで響いてくる気がする。あたし、どうかしてる。
「最近すごく伸びてるね」
先生が図面から目を上げて、あたしを見た。ちょっと驚いたみたいな、でも嬉しそうな顔。
*やばい。全然聞いてなかった。ていうか今なんて言った。伸びてる? あたしが?*
反射的に顔が下を向いた。テキストの文字が視界に入ってるのに、一文字も読めない。頭の中が「先生に褒められた」っていう事実でいっぱいになって、権利関係もへったくれもない。
問題は、あたしの心拍数のほうがずっとやばいことになってた。宅建の難問より先に。
「……ありがとう、ございます」
やっとそれだけ絞り出して、テキストのページをめくった。めくったけど、何ページを開いたのかわかってない。先生が「じゃあ今日は法令上の制限の復習から」と話し始めて、あたしはペンを持つ手に力を込めて、なんとか現実に引き戻した。
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翌日の教室は、もっとカオスだった。
「先生! 昨日の問題なんですけど、ここの解釈って——」
藤崎さんが朝イチから先生の机に張り付いて、質問を連射してる。今日も完璧なメモ、完璧な準備、完璧な笑顔。あたしが頭の中でぐるぐるしてる間も、藤崎さんは着々と前に進んでいる。あの行動力、ちょっと怖いくらいだ。
「ねえ、今日も図書室行く?」
右肩に気配がして振り返ると、西くんが小声でそう言ってた。ノートを開いたまま、ちらっとあたしのほうを見てる。その横顔は、いつも通り穏やかで、なんか……安心する。
「うん、たぶん行く」
「じゃあ昼休みに」
それだけ言って西くんは前を向いた。短いやりとり。でもなんか、心がほぐれる感じがする。
あたしは教室の前を見た。先生に質問してる藤崎さん。隣に座ってる西くん。そしてこのふたりの視線がときどき微妙にぶつかって、あたしはちょうどその真ん中に挟まってる。藤崎さんは絶対気づいてる。西くんが先生じゃなくて、ちょくちょくあたしのほうを向いてること。
*自分の気持ちってなんなんだ……。*
先生への「これ」と、西くんへの「これ」は、同じ気持ちなのか違う気持ちなのか。どっちも大事にしたいって思う自分が、なんか卑怯な気もして。チョークが黒板を走る音が、やけに大きく響いた。
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午後の授業の終わり際、模擬試験の答案が返ってきた。
ぴったりと折り畳まれた紙を開いて、まず目に飛び込んだのは点数じゃなくて、赤ペンで書かれた一言だった。
「権利関係、惜しい。もう一歩」
点数は悪くなかった。でも先生が教卓の前であたしを呼んだ。
「ちょっといい?」
周りの視線を背中に感じながら近づく。先生は答案を広げて、赤ペンで丸をつけた箇所を指差した。
「合格の可能性は十分ある」
最初にそう言ってくれた。ちゃんと息を吸う間を作ってから。
「でも今のままじゃ足りない」
優しい目だった。でもごまかしが一ミリもなかった。怒ってるわけでも、失望してるわけでもなくて、ただ、あたしのことをちゃんと見てるっていう目。
胸のどこかが、すとん、と落ちる感じがした。
*相手を理解することから始まる——。*
最初の授業で先生が言ってた言葉が、頭の奥から浮かんできた。あのとき、なんか引っかかるなーとは思ったけど、意味なんてちゃんと考えてなかった。
宅建の権利関係って、誰かと誰かの間に何があるかをひたすら整理する作業だ。持ってる権利、渡せる権利、守らなきゃいけない権利。複雑に見えるのは、ちゃんと向き合ってないから。関係を「なんとなく」で済ませようとするから、こんがらがる。
恋愛だって、たぶん同じだ。
向き合う勇気がないと、前に進めない。でも逆に、ちゃんと向き合えば、複雑に見えたものがほぐれていく。
あたし、今まで勉強も、気持ちも、「なんとなく」でごまかしてた。宅建の問題文をなんとなく流し読みして、西くんの優しさをなんとなく受け取って、先生への気持ちをなんとなく保留にして。ぜんぶふわっとしたまま、ぜんぶをポケットに突っ込んで、蓋をしてた。
「……わかりました。ちゃんとやります」
声が震えなくてよかった。先生が少し目を細めて、「うん」と頷いた。
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教室を出て、ひとり廊下に立った。
夕焼けが窓ガラスを染めてる。廊下の端まで続くオレンジ色の光の中に、あたしの影がひとつ伸びていた。
胸いっぱい空気を吸い込んで、ゆっくり吐く。
「今は、合格だけ見る」
声に出したら、なんか決まった気がした。
藤崎さんの気合も、西くんの優しさも、先生への気持ちも——全部ちゃんとポケットに入れて、でも今は取り出さない。恋心を消せるわけじゃないし、消したいとも思わない。ただ、向き合うタイミングが今じゃないってことは、ちゃんとわかってる。
テキストを開いて、赤ペンで「惜しい」と書かれたページを見つめた。
さっきまで難しく見えてた問題が、ちょっとだけ違って見えた。向き合い方が変わると、見え方が変わる。それって宅建だけじゃなくて、全部そうなのかもしれない。
補習室に戻ろうとしたとき、先生が廊下に出てきた。
「あ、まだいたの。来週も頑張ろう」
さらっと言う。いつものトーン。なんでもないみたいに。
でも今回は、ちゃんと顔を上げて先生の目を見た。伏せなかった。逃げなかった。
「はい」
たった一文字。でも今日一番、ちゃんと言えた気がした。
それだけで、十分だった。