宅建恋活!不動産学園/3

3

講師の秘密と本気の勉強会

第3章 挿絵

# 講師が恋した理由

 五月の夕方は、やけに長い。

 放課後の教室に差し込む西日が、黒板をオレンジ色に染めながら、ゆっくりと影を伸ばしていく。ほとんどの生徒がとっくに帰ったあとの教室は、昼間とはまるで別の空気が流れていた。チョークの粉っぽいにおいと、誰かが忘れていったコーヒーの香りが混じって、なんとなく落ち着く。

 残っていたのは、私とリョウくんの二人だけだった。

 椎名リョウ。不動産一家の三代目、らしい。自己紹介のときに「うちは祖父の代から不動産業やってる」ってさらっと言ってのけた、ちょっと生意気なやつ。知識は確かにあるけど、それを鼻にかけてる感じがして、最初は正直あんまり好きじゃなかった。でも図書室で一緒に勉強してから、なんとなく隣にいることへの抵抗感が薄れてきている。なんでだろう。

 私はテキストを閉じて、ぼんやり窓の外を見た。

「ねえ」

 口から言葉が出たのは、考えるより先だった。

「なんで水島先生って、あんなに宅建好きなんだろ」

 言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。好き、って言葉を使ったのが、なんか変な感じで。

 リョウくんは教科書から目を上げず、「知らね」とだけ返した。でも、その声がほんのすこし間があいていた。

 顔を見ると、視線がかすかに宙を泳いでいる。

 ——こいつも気になってるんじゃん。

 そう思ったら、急に立ち上がりたくなった。なんでかは分からない。でも体が動いた。鞄を持って廊下に出て、図書室とは逆の方向へ歩く。突き当たりを曲がったところにある、古びた木のドア。「水島」と書いた表札がついたそれを前にして、私は一回だけ深呼吸した。

 ノック、三回。

「どうぞ」

 先生の声は、授業のときより低くて、おだやかだった。

 扉を開けると、本が壁いっぱいに詰め込まれた、こじんまりした部屋が広がった。法律の分厚い本、宅建の参考書、見たことのないタイトルの判例集。机の上には採点しかけの答案用紙と、半分くらい減ったマグカップ。先生はそこに座っていて、私を見て「ああ、七瀬さん」と目を細めた。

「突然すみません。一個だけ、聞いていいですか」

 先生が頷く。

「なんで、そんなに宅建を愛してるんですか?」

 口に出してから、直球すぎたかなって後悔した。我ながら、デリカシーのかけらもない質問だと思う。講師に向かって「愛してる」って言葉を使うのも、なんか変だし。顔が熱くなってきたところで、先生が静かに笑った。

 立ち上がって、棚の上に置いてあった電気ケトルのスイッチを入れる。しばらくして、インスタントコーヒーが入ったマグカップを二つ、机に並べた。片方を私のほうに差し出しながら、椅子を引いて座るよう、目で促す。

「昔ね」

 先生の声は、静かだった。

「僕の実家が、借地契約のトラブルに巻き込まれたことがあって」

 コーヒーの湯気が、夕暮れの光の中でゆらゆらと立ち上る。

「地主さんが変わって、急に契約内容を変えると言い出した。うちの親、何も分からないから、言われるがままに印鑑を押しそうになったんだ。借地借家法に守られた権利があることも、正当な事由がなければ更新拒絶できないことも、何も知らないまま」

 先生の横顔を、私は黙って見ていた。いつもは講壇に立っている人が、こんなふうに少し疲れた目をしているのが、妙にリアルで。

「知識があれば、防げた話だった。でも何も知らないから、何もできなかった」

 そのひと言が、胸のどこかに静かに落ちた。

 ——相手を理解しないと、守れない。

 ああ、そういうことか。「宅建は恋愛と同じ」って、初日に言っていた言葉。なんとなく気取った比喩だと思っていたけど、全然違った。先生は本気でそう思ってたんだ。大切なものを守るために、相手のことを理解しなきゃいけない。法律だって、土地だって、人だって、きっと同じで。

 お礼を言って研究室を出ると、廊下にリョウくんが立っていた。

 壁に背中をもたせかけて、腕を組んで、なんでもない顔をしている。でも絶対に聞いてた。廊下のドアは薄いし、聞こえないわけがない。

「……聞こえてた」

 少し間があって、リョウくんが小声で言った。視線は廊下の先に向いたまま。

「うちも、な。だから負けてられないんだよ」

 それだけ言って、口を閉じた。

 私も何も言わなかった。何を言えばいいか分からなかったし、たぶん言葉はいらなかった。お互い、先生のことが気になっていて、でもそれより大事な何かが、ぐちゃぐちゃに混ざっている。リョウくんにとっての「負けてられない」が、今の私にはなんとなく分かった気がした。

 廊下の蛍光灯が、じんわりと点灯し始めた。外はもう暗くなりかけている。

「じゃあ、一緒に問題解く?」

 なんとなく、照れくさくなって、私は廊下の先を見ながら言った。

 リョウくんが「しゃあない」と呟いて、歩き出した。それが返事だった。

 教室に戻って、教科書を広げて、問題集のページをめくる。出てきたのは、複数の権利が絡み合う、見るだけで頭が痛くなるタイプの設問だった。抵当権と賃借権と、そこに第三者が出てきて——順番が複雑で、私は三回読んでも整理できなかった。

「だから宅建って嫌いなんだよ」と思わず漏れた言葉を、リョウくんに「うるさい」と返され、でもリョウくんも鉛筆が止まっている。

 しばらく二人でうーんと唸っていたとき、ふと頭の中で、さっきの先生の声が蘇った。

 ——知識があれば、防げた。でも何も知らないから、何もできなかった。

 あの借地のトラブルも、権利と権利がぶつかり合う話だった。地主と借主、それぞれにある権利と義務。優先されるのはどっちで、何があれば守られて、何があれば覆るのか——

「ねえ、これって」

 私は問題文を指でなぞりながら言った。

「さっきの先生の話と同じ構造じゃない? 誰がどの権利を持っていて、それが登記されてるかどうか、対抗できるかどうか——」

 リョウくんの手が止まった。

 そして少しだけ目が丸くなって、また問題文に視線を落とす。鉛筆が動き出した。「あ」って小さな声が聞こえて、私も分かった。するすると、絡まった糸がほぐれるみたいに、答えへの道筋が見えた。

 自分で答えを出せた、という感覚。初めての感覚だった。

 点数が上がったとか、テストで正解できたとか、そういうことじゃなくて。考えて、繋げて、分かった、という、その過程ごと手に入れた感じ。これが嬉しいのか、と思ったら、なんだかむずがゆくなった。

 翌朝、廊下で先生とすれ違ったとき、呼び止められた。

「七瀬さん、ちょっといい?」

 先生が手に持っていたのは、先週の小テストの答案用紙だった。私の名前が書いてある。

「成績、伸びてるね」

 それだけ言って、先生は少し表情をやわらかくした。

「来週から補習の勉強会を開くんだけど、来てみない?」

 胸が、うるさかった。

 それが宅建のせいなのか、先生のせいなのか、自分でもよく分からなかった。昨日のコーヒーのことを思い出したせいかもしれないし、問題が解けたときのあの感覚を、もっと味わいたいと思ったせいかもしれない。

 でも。

「はい」

 と答えた私の声は、入学してからこの方で、たぶん一番はっきりしていた。