第6章
手記の夜明け

# 旅人の手記
アルトが目を覚ましたのは、夜明けより少し前だった。
宿の天井には染みがひとつあって、昨日もおとといも、目が覚めるたびにそれを眺めていた。形はどこか羽根みたいで、でも見る角度によっては魚にも見える。3日間でずいぶん親しくなった染みに向かって、アルトは小さく「じゃあな」と呟いた。
毛布をはぐと、夜の冷気が肌に触れた。窓の外、空はまだ深い藍色をしていた。夜明け前のこの時間帯は、世界が息を潜めているみたいで好きだった。誰も起きていない。音もない。ただ時間だけが、静かに動いている。
宿着のまま外に出ると、駐車場の端にシルヴァーが停まっているのが見えた。朝露で少し濡れた車体が、街灯の光を鈍く反射している。近づいて、革のシートに手を置いた。冷たくて、でもなぜか安心する冷たさだった。
「シルヴァー、俺、なんで旅してるんだろな」
声に出してから、自分でも少し笑った。バイクに話しかけるなんて、客観的に見たらかなりおかしい。でもシルヴァーはそんなアルトに構わず、エンジンが小さくうなりを上げた。駐車中のはずなのに。まるで、聞いてるよ、と言うみたいに。
おかしな話だとわかってる。でもシルヴァーはいつもそうやって、ちゃんと聞いてくれるんだ。
アルトは答えを求めるでもなく、夜明け前の町を歩き始めた。石畳の道は昨夜の雨でうっすら濡れていて、足音がやけにはっきり響く。商店はどこもまだシャッターが下りていて、猫が一匹、物陰からアルトをじっと見ていた。目が合うと、猫はゆっくり瞬きをして、それだけで何かを伝えたみたいに路地へ消えた。
歩きながら、ふと頭の中に映像が浮かんできた。
星花村の夕暮れ。空が紫に染まって、老女がほうじ茶の湯気ごしに微笑んでいた。「願いはね、声に出さなくても届くんですよ」と彼女は言っていた。その言葉の意味を、アルトはあの時まだわかっていなかった。
灰色の市場の喧噪。人混みの中で目が合った少年は、ひどく疲れた目をしていた。でも別れ際、「また来いよ」って言った時の顔は、ちょっとだけ子どもみたいだった。完全には解決しなかったこと、それでも何かが変わったこと。
静寂の町で問われた言葉。「あなたは、何から逃げているの?」誰かの声だったか、自分の内側から聞こえてきた声だったか、もう区別がつかない。でも確かに、あの問いはアルトの何かを揺らした。
変わり続ける町で見た背中。まだ若くて、でも疲れていて、それでも前を向いていた青年。あれは自分だったのか、それとも自分がなりたかった誰かだったのか。
全部、つながってる。
アルトは石畳の上で立ち止まった。バラバラに見えた旅の欠片が、実は一本の糸で結ばれていたことに、今さら気づいた。気づいたというより、やっと認めた、という感じに近かった。頭のどこかでは、ずっとわかっていたような気もする。
「俺は何かを探してたんじゃなくて」
声に出してみると、霧が晴れるみたいに思考がクリアになった。夜明け前の冷えた空気が肺に入って、なんだか深呼吸したくなった。
「旅に、生かされてたんだ」
逃げてたわけじゃない。答えを求めてたわけでもない。ただ動いていることで、自分が自分でいられた。止まると崩れそうだったから走ってたんじゃなくて、走ることそのものが、アルトにとっての呼吸みたいなものだったんだと思う。
3日という周期だって、誰かに決められたルールじゃない。気づいたら体がそれを覚えていた。心が、それを望んでいた。長すぎると馴染んでしまう。短すぎると何も見えない。3日は、ちょうどいい距離感だった。
宿に戻ったアルトは、荷物の底に眠っていた古いノートを引っ張り出した。旅の最初から持っていたくせに、一度も開いたことがなかった。表紙は少しくたびれていて、革のカバーに細かい傷がついていた。どこかの土地で受けた傷なのか、もとからついていたのかもわからない。
ペンを手に取る。少し迷って、でも書き出したら止まらなかった。
星花村に着いた夜、空が紫色に染まっていた——。
インクが紙に染みていく感覚が心地よかった。訪れた町のこと、会った人たちの顔、自分が見て、聞いて、感じたこと。文章がうまいかどうかなんて関係なかった。ただ正直に書いた。旅を記録することで、初めて旅が「自分のもの」になる気がした。今まで素通りしていたものが、ページの上でちゃんと形になっていく。
書きながら、アルトは笑いたくなった。星花村で少女が流した涙の話を書いていたら、なぜか胸がじんわりあたたかくなったから。感情って、あとから気づくこともあるんだな、と思った。
窓の外が、少しずつ白んできた。
藍色だった空が、端から薄く橙色に染まり始めていた。夜明けだった。アルトは最後の一行を書き終えて、ノートをそっと閉じた。表紙をしばらく眺めてから、荷物の中にしまう。今度は底じゃなくて、すぐ取り出せる場所に。
身支度を整えて、宿を出た。
朝の光の中でシルヴァーを見ると、昨夜とはまた違う顔をしているみたいだった。朝露が乾いて、車体がさらりとしている。またがると、シートが体の形を覚えているみたいにしっくりきた。
「行こうか、シルヴァー」
エンジンをかける。低い音が朝の静けさを割って、鳥が一羽、電線から飛び立った。
目的地はない。3日で去るかもしれないし、もっと長くいるかもしれない。今日の自分には、それが決められない。でも、それでいい。決められないことが、今のアルトには一番しっくりきていた。
アクセルを開けると、風が頬を叩いた。冷たくて、気持ちよくて、アルトはそれをまっすぐ受け止めながら、まだ見ぬ地平へと走り出した。
手記は、まだ続く。