旅人の手記/5

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選択の夜明け

第5章 挿絵

# 旅人の手記 最終章

「また来たんだね」

その声を聞いた瞬間、アルトは思わず振り返った。

町に着いたのは夕刻のことだった。西の空がオレンジと紫を混ぜたような色に染まっていて、石畳の路地に長い影が伸びていた。シルヴァーのエンジンを切ると、潮の香りに似た、でも海とは少し違う甘い空気が鼻をついた。どこかで夕飯を作っているのだろう、スパイスの匂いが風に乗って漂ってくる。ここは、よくある、どこにでもある町だった。特別な輝きもなく、怪しい噂もなく、ただ人々の暮らしが静かに積み重なっているだけの場所。それなのに、路地の角に立つその女の声は、妙にアルトの胸の奥まで届いた。

見慣れた顔だと思った。星花村で世話になった老女の、あの細くて優しい目元に似ていた。灰色の市場で追いかけっこした少年の、あの人懐っこい笑い方にも似ていた。でも、違う。この町で初めて会う、見知らぬ女だ。歳は三十そこそこだろうか。くすんだ茶色のショールを羽織って、荷物ひとつ持たずに路地に立っていた。

「……俺のことを知ってるのか?」

「知らないよ」と女は笑った。「でも、あなたみたいな顔した人はよく来る」

それだけ言って、女は路地の奥へ歩いていった。革靴が石畳を叩く音が、しばらく続いてから消えた。アルトはシルヴァーのハンドルを握ったまま、しばらく動けなかった。*あなたみたいな顔*。どんな顔だ、と心の中で呟いてみたけれど、答えは出なかった。

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三日間、アルトはこの町に溶け込んだ。

朝は市場を歩いた。色とりどりの果物が山積みになった屋台、くたびれた革のジャケットを並べた古着屋、干した魚を大声で売りさばく老人。誰もアルトを珍しがらなかった。旅人が来ることに慣れているのか、それともただ無関心なのか、どちらにせよ居心地は悪くなかった。

昼は川沿いのベンチで飯を食った。屋台で買った黒いパンとスープで、味は濃くて少ししょっぱかったけれど、空腹のせいかうまく感じた。川は透明で浅く、石の底がよく見えた。子供たちが裸足で水に入って笑っていて、アルトはそれをぼんやり眺めながら、自分がいつ最後に笑ったのか思い出せなかった。

夜は宿の軒先でシルヴァーを磨いた。旅の汚れが溜まった車体を丁寧に拭いていると、不思議と頭の中が静かになった。星花村の薄紫の夜、灰色の市場の喧騒、静寂に佇んだあの廃村の記憶、変わり続けた町で感じた揺らぎ。色んなものが積み重なって、でも今夜は妙に遠く感じた。

どこにでもある、普通の町。なのに、なぜか居心地がよかった。

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三日目の夜、女がまた現れた。

宿の前の石段に腰掛けていたアルトの前に、ショールをまとったまま立って、少し迷ってから隣に座った。月がやけに丸くて明るい夜で、路地が薄く白く浮かびあがっていた。

「明日もいていいよ」と彼女は言った。声は静かで、脅しでも懇願でもなかった。「四日目も、五日目も。誰も何も言わない」

アルトは答えられなかった。言葉が見つからなかったのではなく、答え自体がなかった。頭の中で何かを探そうとして、でも引っ張り出せるものが何もなかった。

なぜ三日で去るのか。

なぜ旅を続けるのか。

気がつけばそうしていた、という感覚だけがあって、理由なんて最初からなかったのかもしれない。星花村を去った時も、灰色の市場を後にした時も、気づいたらシルヴァーに跨っていた。誰かに強いられていたわけじゃない。でも、自分で選んでいたのかと問われたら、それも違う気がした。

女は何も言わずに月を見ていた。急かさなかった。アルトの沈黙を、静かにそこに置いておいてくれていた。

アルトはゆっくり立ち上がって、シルヴァーのそばまで歩いた。冷えた夜気の中で、金属の車体はひんやりとしていた。掌を乗せると、昼間の熱がまだほんの少し残っていて、それがなぜか温かみのように感じられた。

――行くのか。

エンジンに触れた指先を通して、そう問われている気がした。シルヴァーがそう言っているのか、自分自身がそう問いかけているのか、もうわからなかった。アルトは思わず苦笑した。バイクに何かを問われているとしたら、そうとう旅に毒されている。

「わからない」と、初めて声に出して言った。「でも、行く」

女が小さく息をついたのが聞こえた。否定でも肯定でもない、ただ受け取ったというような息だった。

理由じゃない。答えじゃない。論理とか義務とか、そういうものでもない。ただ、そうしたかった。走り出したかった。次の朝の光を、知らない場所で浴びたかった。それだけだった。それだけで、十分だった。

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夜明け前に荷物をまとめた。宿の主人はまだ眠っていたので、料金は木の扉の隙間に差し込んでおいた。

空が白む前の、世界がいちばん静かな時間。町はまだ眠っていて、市場も川沿いのベンチも、昨日とまるで同じ顔をして静止していた。石畳に足音が響くのが申し訳ないくらい、静かだった。

シルヴァーのエンジンをかけると、低い唸り声が夜明けの空気を揺らした。女は来なかった。手を振る人も、見送る人も、誰もいなかった。それでいいと思った。あの女はたぶん、見送ることも引き止めることも、最初からするつもりがなかった。

ただ、静かに見送っていた。

朝の光が地平線の向こうから滲み出してきた頃、シルヴァーは走り出した。町の石畳から砂利道へ、砂利道からやがて見晴らしのいい一本道へ。風が頬を叩いて、冷たくて痛くて、でも気持ちよかった。

次の町がどこかも、何があるかも知らない。また三日で去るのか、それとも別の何かが待っているのか、それもわからない。でもアルトは今、初めてはっきりと「知らなくていい」と思っていた。これまでも知らなかったけれど、今日は知らないことを、ちゃんと選んでいた。

地平線が金色に染まっていく。

シルヴァーのエンジン音だけが、朝の世界に響いていた。

旅は続く。それだけで、十分だった。

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