第4章
変わり続ける町

# 旅人の手記 第4章「流れ込む町、ルミナ」
「ここ、なんか変だな」
アルトがそう呟いたのは、シルヴァーのエンジンを切った直後のことだった。排気音が消えると、町の音がどっと耳に流れ込んでくる。石畳の広場では子どもたちが声を上げて笑い、軒先では老人が木箱の上に干物を並べ、路地の奥では女たちが洗濯物を風に任せて干している。どこにでもある、普通の光景だ。夕陽が屋根の端を橙色に染めていて、どこかの窓から煮込み料理の匂いが漂ってくる。
なのに——なんか、違う。
うまく言葉にできない引っかかりを胸の奥に押し込んで、アルトは荷物を持って宿に向かった。
違和感の正体がわかったのは、翌朝のことだった。
宿の食堂に降りていくと、昨晩チェックインの手続きをしてくれた宿のおじさんが、にこにこしながら朝食を運んできた。パンと、濃いめのスープと、焼いたソーセージ。昨日の彼は必要最低限の言葉しか口にしない、無口で目つきの鋭い男だった。なのに今朝の彼は、「よく眠れましたか」「外は少し肌寒いですよ」「スープは熱いうちにどうぞ」と、立て続けにしゃべりかけてくる。目元まで柔らかくなっていて、まるで別人みたいだ。
アルトはスプーンを持ったまま、おじさんの背中を目で追った。
一晩で人ってここまで変わるか?
「気づいてるんですね」
声をかけられて振り向くと、窓際の席に若い男が座っていた。アルトと同じくらいの年頃で、くすんだ茶色のジャケットを羽織っている。顔つきはどこにでもいそうなのに、目だけがやけに落ち着いていた。余計なものを映していない、静かな目。
「マールといいます」と男は言った。「旅人さんでしょ。見ればわかる」
「そんなにわかりやすいか、俺」
「荷物の持ち方と、目の動かし方が違うんですよ。住んでる人間と」
アルトは向かいの席に移って、マールと向き合った。
「この町の人たちは、毎日ちょっとずつ変わるんです」マールはスープを一口すすってから、静かに続けた。「気づいてる人はほとんどいないけど。ルミナは変化の町だから。住んでいると、自分でも気づかないうちに、ちょっとずつ別の自分になっていく」
アルトは黙って聞いた。窓の外で、朝の光の中を子どもが駆けていく。
「昨日怒りっぽかった人が、翌日には穏やかになってたり。逆に、優しかった人が急に口数少なくなったり。町全体が、川みたいに流れてるんです。止まらずに、ずっと」
「住んでる人は、自分が変わってるって気づかないのか」
「気づかないんじゃなくて、気にしないんだと思います。変わることが当たり前だから」マールは少し笑った。「あなたも、変わってますよ。昨日最初に会った時より、目が柔らかくなった」
最初に会った、というのが引っかかった。アルトにはマールと話した記憶がない。
「昨日、俺たち会ったっけ」
「広場で。ほんの一瞬ですけど」
そうだったか。アルトは自分の記憶を探ったが、うまく見つけられなかった。そのことより、「目が柔らかくなった」という言葉のほうが、なぜか胸の真ん中に刺さって抜けなかった。
マールはかつて、旅をしていたらしい。アルトとよく似た形で、目的もないまま各地をまわっていたという。でもある日、ルミナにたどり着いて、そのまま居着いてしまった。
「なんで止まったんだ」
「ここに来たら、急に急ぐ気がなくなったんです」マールは遠くを見るような目をした。「旅してる時、ずっと何かを探してるつもりでいた。でもルミナに来て、気づいたら探すのをやめてた。止まることも、変化のひとつだって」
アルトはスープの器を両手で包んだ。温度が手のひらに染みてくる。
マールの話が、どこかひどくリアルに聞こえた。それが過去の自分の話なのか、それとも未来の話なのか、アルトにはうまく判断できなかった。ただ、笑って「そうですね」と言えるような気持ちにも、なれなかった。
二日目も三日目も、ルミナは変わり続けた。昨日まで仏頂面だった魚屋が柔らかく笑うようになり、陽気だった路地の子どもたちが急に静かに本を読んでいる。町全体がゆっくりと呼吸をしているみたいで、アルトはいつの間にか、変化を探しながら石畳を歩いている自分に気づいた。
そして三日目の夜。
シルヴァーのそばに立ったアルトは、珍しく動き出せなかった。
出て行く理由がないわけじゃない。三日経った。次の土地がある。それだけで十分なはずだった。これまでは、それだけで足が動いた。でも今夜は、石畳の感触が靴底を通じてやけにはっきり伝わってきて、なかなかシルヴァーにまたがれなかった。
残る理由が、ある気がした。
それがはっきりした感情なのか、ただの気まぐれなのか、アルトにはわからなかった。でも確かに、今夜の「去りたくなさ」は、これまでと質が違う。
石畳の向こう、宿の入り口のあたりでマールが手を振っているのが見えた。
「また来てください」
その言葉は静かで、引き留めるわけでも、惜しむわけでもなかった。ただ、次もあるよ、と言っているみたいだった。
アルトはシルヴァーのエンジンをかけながら、ふと思った。
これまで町を去るたびに、「理由がない」と感じてきた。去るのが当たり前で、残る理由を考えたことすら、ほとんどなかった。でも今夜は違う。去ることを、自分で選んでいる。それがわかる。
ただそれだけのことが、なんか少し——重かった。
シルヴァーが石畳を離れ、暗い道へ入っていく。ヘッドライトが前方を切り開いて、次の土地の輪郭を照らし始めた。
アルトはしばらく、ミラーの中のルミナの灯りを見ていた。町は変わり続けているだろう。明日には、また誰かが少し違う誰かになっている。マールも、おじさんも、路地の子どもたちも。
それでもルミナは、ルミナのまま、そこにあり続ける。
そのことが、不思議と——悪くなかった。