旅人の手記/3

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静寂に佇む町

第3章 挿絵

# 旅人の手記 第3章「静寂の町と問いかけ」

「シルヴァー、ここ……本当に町か?」

アルトはエンジンを切り、ヘルメットを外した。むわっとした空気が顔に触れる。さっきまで走っていた街道とは打って変わって、風すら迷子になったみたいにのろのろと動いている。

広がるのは、錆びたトタン屋根の並ぶ路地と、枯れた噴水の広場だった。石畳の隙間から雑草が伸び、噴水の縁には誰かが忘れていったような植木鉢が一つ、傾いたまま置かれている。人影はない。鳥の声もない。虫の羽音すら聞こえない。風だけが、乾いた音を立ててときどき通り過ぎていく——それすら、どこか遠慮がちで弱々しかった。

変だ、とアルトは思った。町の形はしている。家がある、道がある、広場がある。でも何かが根こそぎ抜けたみたいに、ここには「生活している感じ」がない。灰色の市場だって騒がしくて疲れたけど、あそこには確かに人の体温があった。ここにはそれすらなかった。

引き返せばいい。でも、なぜかその気になれなかった。

シルヴァーのサイドスタンドを立て、路地の奥へ歩き出す。自分の靴音が妙によく響いた。こんなに静かな場所で自分の足音がこんなに大きく聞こえるのは、なんだか落ち着かない。アルトはなんとなく歩調を緩めた。

薄暗い家の窓から、視線を感じた。

カーテンがわずかに揺れる。一瞬だけ、人の輪郭のようなものが見えた気がした。アルトは立ち止まり、ゆっくりそちらへ近づいて、ドアをノックした。

しばらく間があった。諦めかけたころ、ドアが内側からゆっくり開いた。

出てきたのは白髪の老人だった。皺の深い顔。目が鋭い——けれどアルトはすぐに気づいた。その鋭さは警戒じゃなくて、長い時間をかけて積み重なった疲弊が固まったものだ、と。燃え尽きた焚き火みたいな目だった。

「旅人か。久しぶりだな」

声はしわがれていたけど、拒絶する色はなかった。老人はアルトを玄関先に通し、椅子を一つ引いてよこした。台所の隅に小さなランプが灯っていて、その光だけが部屋をぼんやり照らしていた。

老人の話によれば、この町はかつて栄えていた。市が立ち、子供たちが走り回り、夜になれば誰かの家から歌が漏れていた——そういう場所だったらしい。だが十年前、ある朝突然、「音」が消えた。鳥の声も、虫の鳴き声も、川のせせらぎも、子供の笑い声も。まるで誰かが世界のどこかにあるつまみを絞ったみたいに、静かになった。理由はわからない。何も変わっていないのに、音だけが消えた。

住人のほとんどは怖がって去っていった。残った数人は今も、ここで「音が戻るのを待っている」という。

「なぜ待てるんですか」とアルトは聞いた。「戻る保証なんて、どこにもないのに」

老人は短く鼻を鳴らした。「保証があるから待つわけじゃない。他にすることがないから待つんだよ」

アルトはその言葉を噛み砕けないまま、少し黙った。それから、思ったことをそのまま口にした。

「あなたも何かを待ってるんですか」

老人は少し間を置いた。ランプの炎がゆらりと揺れた。そして老人は、問いに答えるかわりに逆に問い返してきた。

「あんたは? 何から逃げてる?」

アルトは言葉に詰まった。

逃げている? 違う、と反射的に思った。俺は逃げてるんじゃない——でも、じゃあなんで旅をしているのかと自分に問うと、するりと言葉が逃げていく。旅立った日のことを思い出そうとすると、なぜかいつも靄がかかったみたいにぼやけている。目的地も、理由も、最初からなかった気がする。あるのはただ、走っているという事実だけだ。

アルトはうつむいて、「……わかりません」とだけ言った。

老人は何も言わなかった。責めるわけでも、慰めるわけでもなく、ただランプの炎をじっと見ていた。その沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。

二日間、アルトは町をゆっくり歩いた。廃屋のような家が並ぶ路地、誰も座っていないベンチ、色あせた看板。それでも隅々まで歩くと、人が暮らした痕跡がそこかしこにあった。玄関先の石段が、長年の出入りで中央だけなめらかに削れていた。路地の曲がり角に、子供の落書きらしき線が刻まれていた。誰かがここで笑って、怒って、泣いて、生きていた。その残像が、静寂の中にうっすらと残っている。

なんだろう、とアルトは思った。この感じ。消えたものの形だけが残っている場所。

三日目の朝、アルトは広場の枯れた噴水の前に立っていた。

昨夜のことを考えていた。眠れなくて外に出たら、風の中に何かが混じった気がした。葉が擦れるような、かすかな、本当にかすかな音。気のせいかもしれない。でも確かに聞こえた、と思った。

老人に話すと、「気のせいだ」とぶっきらぼうに言った。でも、その目が少しだけ柔らかくなっていたのをアルトは見逃さなかった。老人はすぐに視線を逸らして、ランプの芯をいじり始めた。隠すのが下手な人だ、とアルトは思って、少しだけ笑いそうになった。

答えは出なかった。

町の音がなぜ消えたのかも、老人がなぜ待ち続けるのかも、アルトが旅を続ける理由も——何一つ解決しなかった。謎が謎のまま残って、問いが問いのまま宙に浮いている。

でも、それでいいかもしれない、とアルトは初めて思った。

答えがないまま待てる老人がいる。意味がわからないまま走り続けている自分がいる。それはもしかして、そんなに違うことじゃないのかもしれない。

シルヴァーにまたがり、エンジンをかける。排気音が静寂を真っ二つに割った。町じゅうに響き渡る、ひどく場違いな音だった。でもアルトは、なんとなくそれでいいと思った。静かすぎる場所に、少しくらい音を置いていってもいい。

老人が玄関先に出てきて、こちらを見ていた。手は振らない。ただ、立っている。

アルトはヘルメットのシールドを下ろした。

「行くか」

どこへ、とは言わなかった。次の土地で何があるかも、自分が何を求めているかも、まだわからない。ただ、それをわからないまま走ることが——今のアルトには、不思議と悪くなかった。

シルヴァーが動き出す。錆びた路地を抜け、風の中へ出ていく。バックミラーの中で、小さな町がだんだん遠ざかっていった。