第2章
灰色の市場

# 旅人の手記 第2章「喧騒の町と泥棒少年」
星花村を後にして丸一日が過ぎた。
あの薄紫の夜が、まるで夢だったみたいに思えてくる。シルヴァーのエンジンが一定のリズムで唸りを上げ、アルトの耳に心地よく響いていた。荒野から続く一本道は、いつの間にか石畳の敷かれた道に変わっていて、遠くから人の声がどっと押し寄せてきた。
「着いたか」
アルトがつぶやいた瞬間、目の前の世界がぱっと開けた。
屋台、露店、色とりどりの幟。商人たちが石畳の上を忙しなく行き交い、果物を積んだ荷車がきしみながら脇を通り過ぎる。威勢のいい呼び込みの声があちこちから飛んできて、子どもの笑い声と、値段交渉の怒鳴り声と、どこかで焼かれる肉の匂いが全部ごちゃまぜになっていた。星花村の、あの柔らかな静けさとはまるで正反対の空気だ。アルトは思わず肩をすくめ、ヘルメットのバイザーを上げた。
喧騒に包まれた町。名前も知らないけれど、まあいい。どうせ三日しかいないのだから。
シルヴァーを路地の端に停め、荷物を担いで宿を探す。看板を見つけて飛び込むと、受付カウンターの奥から出てきた女将は、アルトの顔を一瞥するなり口を開いた。
「旅の人かい。部屋はあるよ。一泊いくらか聞く前に言っとくけどね」
女将は声をひそめるでもなく、堂々とした口調で続けた。
「ここんとこ商品の盗難が続いてるのよ。誰がやってるかはわかってるんだけど、証拠がないんだから。気をつけな」
アルトは「はあ」と短く返事をして、鍵を受け取った。
翌朝、早起きして町をぶらついた。朝の市場は夕方とは違う顔を持っていて、商人たちがまだ少し眠そうな顔で店を開け始めている。湯気の立つスープの匂いにつられて露店を眺めていたとき、その子を見た。
果物屋の台に積まれた丸くて赤い果物。その傍らで、十二か三歳くらいの少年がそっとポケットに手を滑り込ませようとしていた。動作は素早かったけれど、アルトの視線とがっちり合ってしまった。
少年の目が大きく見開かれる。次の瞬間、脱兎のごとく走り出した。
「……はあ」
ため息をついたのに、なぜか足が動いていた。別に義務でもないし、見回り役を買って出たつもりもない。ただ、あの目が頭から離れなかった。怯えていたわけじゃない。どこか、追い詰められた獣みたいな目だった。
路地を抜け、石畳が途切れて土の道になり、川沿いへ出る。橋の下、草の生えた斜面に沿って、少年は壁際に縮こまっていた。逃げ場を失って、それでもまだ逃げようとする素振りで体が強張っている。
「食うためか」
アルトは単刀直入に聞いた。遠回しに話す気力がなかったし、少年もそっちのほうが楽だろうと思った。
少年の唇がかすかに震えた。しばらく間があって、小さくうなずく。
ぽつりぽつりと話してくれたことをつなぎ合わせると、こうだった。親はいない。どこかへ行ってしまった、というより、最初からいなかったようなものらしい。働こうと店を回っても、子どもだからと追い払われ続けた。腹が減って、減って、気づいたら手が動いていた。
アルトはしばらく川の流れを眺めた。水面がきらきら光って、喧騒の町の音が遠く聞こえる。
無言でポケットをまさぐり、硬貨を取り出した。少年の手を引っ張って、ひらりと載せる。
「これで今日食え。明日、俺と一緒に来い」
少年が目を丸くして、硬貨と、アルトの顔を交互に見た。
「……なんで」
「さあな」
アルトは立ち上がって、背中を向けた。本当に理由はよくわからなかった。ただ、何もしないのは違う気がした。それだけだ。
二日目、朝から少年を連れて町中を歩いた。少年は最初、アルトの三歩後ろをついてくるだけで、名前を聞いても「レン」とだけ答えた。
一軒目の荒物屋は「子どもはいらない」と即座に断った。二軒目の薬屋は話も聞かなかった。アルトは別に落ち込む様子もなく、次の店の扉を開ける。レンはその背中をじっと見ていた。
三軒目が、通りの角にある食堂だった。女主人は五十がらみで、腕まくりをして厨房から出てきた人だった。アルトが事情を話すと、しばらく腕を組んでレンを眺めた。
「皿洗い、ちゃんとできるかい」
レンはこくんとうなずいた。
「逃げたりしないかい」
また、うなずく。
女主人はふうと息をついて、「うちで使ってみようかね」と言った。それだけだったけど、その声には面倒見のいい温かさがにじんでいた。
その瞬間、レンの顔がくしゃっと歪んだ。泣くのをこらえているのが丸わかりで、必死に唇を結んで天井を見上げている。アルトは視線をさりげなく外して、「じゃ、よろしく」と女主人に頭を下げた。
三日目の夜明け前、空がまだ紺色をしているうちに、アルトはシルヴァーにまたがった。
エンジンをかける前に、少しだけ手を止める。別れを告げに行くつもりはなかった。起こしたら、また変な顔をされる。それに、言葉なんて特にない。
ゆっくりと走り出して、食堂の前を通り過ぎた。窓の向こうに、灯りが灯っていた。早起きして、まだ誰も来ない厨房で、小さな背中が一生懸命に動いている。
奇跡じゃない。誰かが動いただけだ。
でも、それでいい気がした。
シルヴァーのエンジンが唸りを上げ、石畳を蹴って走り出す。喧騒の町が後ろへ遠ざかっていく。アルトは前だけを向いて、次の地へ向かった。