第1章
星花村の願い

# 星花村の三日間
荒野を突っ切る風は乾いていて、砂粒がヘルメットのシールドを叩く音だけが続いていた。遮るものは何もない。どこまでも続く赤茶けた大地に、アルトとシルヴァーだけが取り残されたみたいだった。
アルトはスロットルを少し緩め、地平線に滲む夕焼けをぼんやりと眺めた。空はオレンジから深い紫へ、グラデーションを引きながら暮れていく。綺麗だな、と思う。そう思うたびに、誰かに伝えたいような、でも別にそれでいいような、ちょっと宙ぶらりんな気持ちになる。旅をしていると、そういう瞬間が増えた。
「そろそろ着くか、シルヴァー」
呟くと、足元のバイクが低くエンジン音を響かせた。まるで返事をするみたいに。アルトは思わず口元を緩めた。こいつと走りはじめてどれくらい経つだろう。正確には覚えていない。でも、この音を聞くたびに少しだけ気持ちが落ち着くのは確かだった。
夕暮れの靄の中に、ぼんやりと輪郭が浮かびあがってきた。こぢんまりとした村だった。道沿いに立てられた木の看板には『星花村』と彫られている。文字の周りに、小さな花の模様が丁寧に刻まれていた。誰かがずいぶん手をかけたのだろう。それだけで、この村がどんなところか少しだけわかる気がした。
村に入ると、何人かの住人がアルトに気づいた。でも誰も身構えなかった。よそ者に向けるような警戒の目線は、ここにはなかった。ただ穏やかに頷いて、また自分の仕事に戻っていく。薪を割っていたおじさんも、洗濯物を取りこんでいたおばさんも、じっとアルトを見つめていた猫も。警戒というものを忘れた人たちみたいだった。
宿を貸してくれたのは、背の低い老女だった。皺の深い顔に、人懐こい目をしている。部屋に案内されると、すぐに湯気の立つお茶を持ってきてくれた。素朴な土の器で、ひと口飲むと、ほんのり甘くて花の香りがした。
「ここではね、三日ごとに願いが一つ叶うんだよ」
老女はそう言って、縁側の向こうに広がる暗くなりかけた空を眺めた。どこか遠くを見るような目だった。
「へえ」とアルトは相槌を打った。信じるかどうかは別として、面白い話だと思った。旅をしていると、そういう「どこにでもある特別」みたいなものにたくさん出会う。本当かどうかより、人がそれを信じて生きている、その事実の方が大事な気がした。
翌朝、アルトは村をぶらついた。道の脇に咲く名前も知らない小さな花が、朝露に濡れてきらきらしている。どこかで鳥が鳴いていた。静かな村だった。良い意味で、時間がゆっくり流れているような感じがした。
村の外れで、膝を抱えて座っている少女と目が合った。十二か十三くらいだろうか。癖のある短い黒髪が、朝風に少し揺れている。アルトを見た瞬間、少女は立ち上がった。
「あなた、旅人でしょ。手伝ってほしいことがあるんだけど」
単刀直入な子だった。遠慮とか前置きとか、そういうものをすっぱり省いたような物言いだった。アルトは少し目を丸くしてから、笑った。嫌いじゃない話し方だ。
話を聞くと、少女の願いは村の外れにある枯れた井戸を、もう一度使えるようにすること。ずっと前から水が出なくなっていて、でも蓋になっている重い石板をひとりでは動かせないでいる。大人に頼もうとしたけど、誰もまともに取り合ってくれなかったらしい。少女の言葉に、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「それだけ?」アルトは立ち上がった。「行こう」
石板は確かに重かった。二人がかりで全体重をかけて、ようやくずらせる程度だった。顔を顰めながら踏ん張る少女の横顔は、必死で、でも諦める気配が全然なかった。石板をどかして井戸の底を覗きこむと、長い年月で積もった土砂が詰まっていた。アルトは近くで拾った棒を使って、少女と交互に掘り起こした。地味で、単調な作業だった。特別な魔法なんて、どこにもなかった。ただの力仕事だった。
汚れた手を払いながら、少女が言った。「ありがとう」声は小さかったけど、ちゃんとそこにあった。アルトは「どういたしまして」と返してから、ふと気になって聞いた。「なんで井戸にそんなこだわるの」
少女は少し黙ってから、答えた。「おじいちゃんが掘った井戸だから」それだけだった。それだけで、十分だった。
三日目の夜、アルトが宿の窓から外を眺めていると、村が変わった。
最初は気のせいかと思った。遠くの草むらに、ほのかな光が灯ったような気がした。でもそれはどんどん広がっていって、気づいたときには村全体が薄紫色に輝きはじめていた。まるで見えない花が、一斉に咲き誇るような光だった。地面の下から滲み出るみたいに、柔らかく、静かに、あたりを包んでいく。
アルトは思わず外に出た。村人たちが家から出てきて、誰も声を上げなかった。みんなただ立って、この光を見ていた。その顔には驚きより、懐かしさに近い何かがあった。
枯れていた井戸のそばで、少女が泣いていた。しゃがんで、井戸の縁に両手をついて、声を上げて泣いていた。見ると、底から水が湧き出ていた。石の隙間を伝って、ゆっくりと、確かに。
願いが叶ったのか。それとも、自分たちの手でちゃんと叶えたのか。アルトには、よくわからなかった。でもどっちでも、たぶん同じことなんじゃないかとも思った。望んで、動いて、そうしたら何かが変わった。それだけで十分な気がした。
夜が明ける前に、アルトはシルヴァーのエンジンをかけた。理由なんてない。ただ、そういう習慣だった。夜明け前の空気は冷たくて、エンジン音が静かな村に少し響いた。誰かが起きてくれるかな、と少し思ったけど、振り返らなかった。
荒野に出ると、空の端がやっとオレンジ色に染まりはじめていた。シルヴァーが風を切って走る。砂粒がシールドを叩く、いつもの音が戻ってきた。
少女の名前を聞きそびれたことに気づいたのは、村の明かりが完全に見えなくなった後だった。次に止まればよかった、と思いかけて、やめた。名前がなくても、あの必死な横顔は覚えている。それで十分だと、アルトは思うことにした。
地平線はまだ遠い。