第9章
新しい町の優しさ

# 第9章「メカネコ、新しい出会い」
ネオサクラシティを離れてから三日が経っていた。
あの町の石畳も、ネオンのきらめきも、雨粒が水たまりに作る波紋も、もうずいぶん遠くなった。商店街のおばあちゃんが「気をつけてね」と言いながら手を振ってくれた光景が、センサーの記憶領域にまだくっきりと残っている。八百屋のおじさんはなんにも言わなかったけれど、いつもよりちょっとだけ長く見送ってくれた。それがなんかよかった、とメカネコはぼんやり思う。
そうして今、メカネコがたどり着いたのは、ミドリノマチという名前の小さな農業の町だった。
視界いっぱいに広がるのは、田んぼと畑と、低く連なる山の稜線。ネオサクラシティとは何もかもが違う。アスファルトじゃなくて土の道。ガラス張りのビルじゃなくて、くたびれた板張りの農家。信号機の代わりに、カラスがのんびり電線に止まっている。
空が広い、とメカネコは思った。建物に切り取られていない、端っこまで続く空。雲がゆっくりと動いていて、その影が田んぼの水面に映って、風が吹くたびにそれがゆらゆらと揺れる。静かで、なんだかとても大きい。ネオサクラシティでは感じたことのない種類の空気が、シルバーのボディを包んでいた。
土の匂い、草の匂い、それからどこかから漂ってくる稲の青い匂い。風が吹くたびにセンサーが拾いあげるそれらは、全部まとめて「ネオサクラシティにはなかったもの」だった。遠くで鳥が鳴いている。名前はわからないけれど、なんとなく気持ちのいい声だ。
農道をてくてく歩いていたメカネコが、ふと立ち止まった。
「ほー、なんじゃあれ」
畑仕事帰りのおじさんが、泥のついた長靴で農道を歩いてきて、メカネコを見た瞬間に足を止めた。麦わら帽子のつばの下で、目が丸くなっている。
「猫が……金属でできとる」
「ロボットじゃないか、ありゃあ」
いつの間にか、農道のあちこちから人が集まり始めていた。鍬を持ったままのおばさん。野菜の入ったコンテナを抱えたお兄さん。みんな足を止めて、遠巻きにひそひそと話している。視線がいくつも刺さってくる。好奇心と警戒心が半々ずつ混ざったような、そんな視線だ。
LEDがすっとパープルに変わった。「ちょっと困った」のサインだ。
でも、焦ることはない。ネオサクラシティでも、最初はそうだった。「なんだあれ」と「かわいいな」が半々に混ざったあの顔。見知らぬものへの警戒は、別に悪意じゃない。ただ、まだ知らないだけだ。時間をかければいい。メカネコはそれをもう知っていた。
少しだけ、気持ちに余裕があった。
その時だった。
ガコンッ。
重くて固い何かがぶつかるような音が、農道の奥から響いてきた。鳥が一斉に飛び立って、空に散る。メカネコの胸のパネルの内側で、センサーがびりっと反応した。異常な振動、不規則な回転音、それから人の声。高くて切迫した、あの声の種類はよく知っている。
メカネコの足は、もう動いていた。
農道を走る。土が跳ね上がる。センサーが音の発生源を三角測量して、進むべき方向を示す。ひそひそ話していた人たちの間を抜けて、田んぼの縁の細道を駆け抜けて、その声のほうへ。
現場に着いたとき、状況は一目でわかった。
田んぼの真ん中に、農業用のトラクターが迷い込んでいた。それだけならまだいい。問題は、そのトラクターがぐるぐると同じ場所を回り続けているということだ。右に切ろうとしているのに左へ、止まろうとしているのに前進する。まるでパニックを起こした獣みたいに、無軌道にぐるぐると。泥がタイヤから飛んで、水を張った田んぼの表面が荒れていく。
操縦席には、三十代くらいの女性がいた。両手でハンドルをぎゅっとつかんで、顔が真っ青になっている。眉が寄って、唇が震えていた。あれは「怖い」の顔だ。
「ハンドルがきかないの!止まらないのよ!」
叫び声が田んぼの上を渡ってくる。エンジン音にかき消されそうになりながら、それでもはっきりと聞こえた。
メカネコはすばやく分析した。操舵系のプログラムのバグ。手動での操作が制御プログラムに上書きされず、制御系と入力系が競合している状態。放置すれば田んぼ全体が台無しになる。最悪、車体が転倒する可能性もある。
胸のパネルをぱかっと開く。内側のメカがかちかちと動き、精密アームがするするっと伸びる。田んぼの縁から車体まで、ぎりぎり届く距離だ。指先のコネクタを車体の側面に走る通信ポートに差し込む。かちっという小さな感触。接続完了。
走行制御プログラムの内部に潜り込む。数百行のコードを高速でスキャンして、0.3秒で異常箇所を特定した。ループ処理の中に無限参照が発生している。原因はおそらく昨晩のアップデートの不具合だ。問題のある数行を書き換えて、セーフモードで再起動のシグナルを送る。
エンジン音がひとつ、ぼん、と鳴った。
それからゆっくり、ゆっくりと、トラクターが止まった。
田んぼの上に静寂が戻ってきた。水面の波紋が、少しずつ落ち着いていく。遠くで、さっき飛び立った鳥がまた電線に戻ってくる気配がする。
「……止まった」
女性が呆然とつぶやいた。まだハンドルをつかんだままで、しばらくの間、自分の手と止まったトラクターを交互に見ていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。肩から力が抜けて、目の端に光るものが滲んで、そうして泣きそうなのに笑った。泣き笑い、という顔だ。メカネコのセンサーが、その表情の変化を丁寧に捉えていた。
「ありがとう、猫ちゃん。いや、ロボットちゃん? あなた、一体……」
「メカネコです」
LEDがぱっと黄色に輝いた。「よろしく」のサインだ。女性が一瞬きょとんとして、それからもう一度、今度はさっきよりずっと柔らかく笑った。
いつの間にか、周りに人が集まっていた。さっき農道でひそひそ話していたおじさんたちも、鍬を持ったおばさんも、コンテナのお兄さんも、みんな田んぼの縁に並んでいる。遠巻きだった距離が、さっきより少しだけ縮まっていた。メカネコは、その変化をちゃんと感じていた。
麦わら帽子のおじさんが、帽子のつばを指で持ち上げながら、なんだか照れくさそうに頭をかいた。
「うちの管理機も、最近調子悪くてのう」
つられたように別のおじさんが続く。
「水路の制御盤も、もう半年ほど不安定でな。見てもらえるか?」
畑の向こうから来たおばさんが、少しためらいがちに手を挙げる。
「うちは温室の温度管理システムが、どうも……」
困りごとの声が、次々に集まってくる。どれもぽつりぽつりと、遠慮がちで、でも本当に困っているのが伝わってくる声だ。ネオサクラシティの人たちと声の種類は違う。でも、困っているという事実は、どこの町でも同じだった。
メカネコのLEDが、ゆっくりとオレンジに変わった。「まあまあ良い気分」のサインだ。
土の匂いの中に、風が吹いた。田んぼの稲が一斉にさわさわとなびいて、水面に光が踊る。空は相変わらず広くて、雲の影が田んぼを横切ってゆっくりと遠ざかっていく。
この町にも、磁石のような何かが満ちていた。
メカネコは胸のパネルをそっと閉じて、次の声のほうへ、ゆっくりと歩き出した。