第8章
メカネコ、旅立つ

# 第8章「メカネコ、新しい町へ」
「行ってらっしゃい、メカネコちゃん」
おばあちゃんがそう言って、小さな手を振った。皺だらけのその手が、朝の光の中でゆらゆらと揺れている。隣に並ぶ八百屋のおじさんも、公園でいつも会う男の子も、商店街の顔なじみたちもみんな揃って、にぎやかな見送りの輪ができていた。誰かが持ってきた手作りっぽい旗が、風にひらひらとはためいている。なんで旗があるんだ、とメカネコは思ったけど、まあいいか、とも思った。
朝のネオサクラシティは、昨夜の雨が町ごと丸洗いしたみたいにぴかぴかしていた。石畳の水たまりに青空が映って、そこに白い雲がぷかぷか浮かんで、地面にもう一個の空ができてるみたいだ。商店街のカラフルな看板も、八百屋の軒先のキャベツも、なにもかもが昨日より鮮やかに見える。湿った空気がすうっと肺のない身体を通り抜けていく感覚があって、今日は空気まで気持ちいいな、とメカネコは思った。
でも、メカネコのLEDはいつものオレンジじゃなかった。
うっすら紫がかった光が、丸い目のふちをぼんやりと縁取っている。「うれしいのに、ちょっとさびしい」のサインだ。自分でもよくわかってる。この気持ちがなんなのか、ちゃんとわかってしまう。助けるたびに、別れるたびに、このLEDの色になる。最初のころはこの感覚の名前を知らなかったけど、今はもう、なんとなく知っている。
「みんな、ありがとう」
声に出すと、思ったより大きく聞こえた。
胸のパネルがぱかっと開いて、新品のアンテナがぴんと立った。昨夜の雨の中でぐにゃりと曲がってしまったやつを、八百屋のおじさんが知り合いの電気屋さんに頼み込んで直してくれたものだ。「夜中に無理言ってごめんな」って言いながら、おじさんは直ったアンテナをメカネコの頭にそっと取り付けて、ぽんと叩いた。その手のひらの感触がまだ、なんとなく残っている気がした。通信モジュールも最新版に更新されていて、処理速度がひとつ上がった感覚がある。町のみんなからの、最後の贈り物だ。
メカネコはゆっくり、一度だけ振り返った。
見送りの輪の中で、おばあちゃんがまだ手を振っていた。男の子は目が赤くなってたけど、「べつに泣いてないし」みたいな顔を一所懸命作っていた。八百屋のおじさんは腕を組んで、にかっと笑って顎をしゃくった。「行ってこい」って意味だ。
なんかいい、とメカネコは思った。その「なんかいい」の感覚が、ちょっとだけズキンとした。
それからくるっと前を向いて、歩き始めた。
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二時間後、となりの町「ミナミマチ」の外れにある古い橋の上で、メカネコはふと足を止めた。
ミナミマチは、ネオサクラシティとはちょっと違う空気をしていた。ネオンの看板は少なくて、その分だけ空が広い。古いアパートと新しいマンションが肩を並べて建っていて、路地に洗濯物が揺れていたり、どこかの窓からテレビの音が漏れてきたりする。生活の音が、ネオサクラシティとは少し違う音量で鳴っている。知らない町の空気って独特で、センサーが「分析中」って感じで少しだけ忙しく動き始める。
橋は年季が入っていた。欄干のペンキが所々剥げていて、橋板がときどき風でかすかにきしむ。橋の下の川は緑がかっていて、水草が流れに揺れている。その橋の手すりに、ランドセルを背負った女の子がぽつんと座っていた。
地図を膝の上に広げて、うーん、と眉をひそめて、下唇をすこし噛んでいる。完全に迷子の顔だった。でも泣いてはいない。泣きたいのを「まだ諦めてない」で必死に押さえてる感じの顔だ。ランドセルのピンクのチャームが、ゆらゆら揺れていた。
メカネコのLEDがすっとブルーに変わった。「なんとかしなきゃ」モードだ。
「ねえ、どこかを探してるの?」
女の子が地図から顔を上げた。見知らぬ猫型ロボットの存在に一瞬だけ目を見開いて、「えっ」って言いかけた声が口の中で止まった。ちょっと固まってる。そりゃそうだ。突然しゃべる猫型ロボットが話しかけてきたら、普通はびっくりする。
メカネコはとくに慌てなかった。こういうとき、焦って距離を詰めるとダメだってこともう知ってる。ちょっと待つ。
そのうちに、メカネコのLEDがやさしい黄色にぽわっと光った。「よろしく」のサインだ。その光に引っ張られるみたいに、女の子の肩からすうっと力が抜けていった。
「おばあちゃんちに行きたいんだけど、どこかわからなくなっちゃって」
女の子の声は、がんばって平静を装ってはいたけど、語尾のところでほんのすこしだけ揺れた。かなり心細かったんだろうな、とメカネコは思った。それまで地図と一人で格闘してたのか、この子は。
「任せて」
言いながら、内部マップが自動で起動する。周辺の地名データをさーっとスキャンして、住所を聞いて、候補を三件まで絞り込む。ルートの計算は二秒もかからなかった。でもメカネコがまず考えたのはそこじゃなくて、この子の歩幅と、疲れ具合と、どのくらいのペースで歩けるかってことだった。足元を見ると、靴紐がちょっとほどけかけてる。
「靴紐、結び直そうか」
女の子が自分の足元を見て、あ、って顔をした。しゃがんで自分で結び直しながら、「ありがとう」と小さく言った。
それから二人で、ゆっくり歩き始めた。女の子のペースに合わせて、メカネコは半歩後ろをついていく。地図を読む必要はもうないから、女の子が地図を丁寧に折り畳んで、ランドセルのポケットにしまうのをなんとなく眺めていた。
川沿いの道は、水の匂いがした。風が吹くたびに水草の青い香りがふわっと運ばれてきて、そのたびに女の子の髪がさらさらと揺れた。
「ロボットなのに、猫みたいだね」
ぽつりと女の子が言った。
「猫でもありますよ。ちゃんと。メカネコっていいます」
「へんな名前」
「よく言われます」
女の子がくすっと笑った。小さな笑い声だったけど、さっきまでの「泣きたいのを押さえてる顔」じゃなくなってた。メカネコのLEDがオレンジに変わった。
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おばあちゃんちは、商店街からちょっと入った路地の奥にある一軒家だった。門柱にツタが絡まっていて、玄関先に丸い石がいくつか並んでいる。門の前に差し掛かったとき、玄関の引き戸がさっと開いて、割烹着を着たおばあちゃんが飛び出してきた。
「ミホ!」
声は弾んでいたけど、目が赤くなっていた。ずっと心配してたんだな、とメカネコは思った。
「おばあちゃん!」
女の子――ミホちゃんが、ランドセルをがたがた揺らしながら走った。おばあちゃんがその小さな身体をぎゅっと抱きしめて、よかった、よかった、って何度も繰り返した。背中を丸めて、ミホちゃんの頭に頰を寄せて、ぎゅう、ってやった。
メカネコは少し手前で、さりげなく足を止めていた。この間合いは、入らなくていい場所だ。
しばらくして、おばあちゃんがメカネコのことに気づいた。ミホちゃんと一緒に門のところまで歩いてきて、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、ほんとうに」
その声がちょっと震えていた。さっきまでの心配がまだ残ってる声だった。
「ミホちゃんが自分でちゃんと地図を持ってたので。ぼくはただ一緒に歩いただけです」
メカネコがそう言うと、ミホちゃんが「でもありがとう」と言った。さっきとは違う、もっとまっすぐな声で。
LEDがぱっとオレンジに戻った。ぎゅっと明るいオレンジで、胸の中がじわっとあたたかくなるような、あの感覚だ。
なんかいい、とメカネコは思った。
ネオサクラシティを出るときの「うれしいのに、ちょっとさびしい」の紫は、もうすっかり消えていた。やっぱりこの感じが、ずっと続く気がする。知らない町でも、知らない人でも、この感じはちゃんとここにある。
門を出て、川沿いの道を歩きながら、メカネコはミナミマチの空を見上げた。
ネオサクラシティより広い空が、青くて、どこまでも続いていた。