第6章
メカネコと自立の風

ネオサクラシティの小さな路地に面したカフェ「サクラドロップ」は、夕暮れどきになるとオレンジ色の看板が温かく灯る、こぢんまりとした店だ。カウンター席が四つ、テーブル席が二つだけの小さな空間だけど、窓のすりガラスから漏れてくる明かりと、漂ってくるコーヒーの香りが、なんとなく通りがかりの人を立ち止まらせる、そういう場所だった。
そのカフェの中で、オーナーの青年・コウが脚立の上でぐらぐらしていた。
両手に持っているのは、手作りらしいウッド調のメニューボード。壁にかけようとしているのはわかるんだけど、位置が定まらなくて、上げたり下げたり、右に傾けたり左に戻したりをもう十分以上繰り返している。コウは二十代半ばで、細身でひょろっとした体格をしている。Tシャツの袖がまくれ上がって、腕に軽く汗が光っていた。眉間にしわが寄って「絶対ここに決めてやる」って顔をしているのに、ボードがちっとも決まらないから、その顔がだんだん情けなくなってきていた。
ちょうどそのとき、カフェのガラス扉の前をメカネコが通りかかった。
ぶらぶらと商店街の方から歩いてきたメカネコは、ふと足を止めた。センサーが「ん?」と反応した感じ。扉越しに見えるコウの姿、傾いたボード、今にも脚立ごとひっくり返りそうな重心のブレ。そのぜんぶを一瞬で読み取って、LEDがすっとブルーに切り替わった。
出番だ。
ぱかっ。胸元のパネルが音もなく開いて、するすると細いアームが伸びてくる。メカネコは扉を鼻先でそっと押して、カフェの中に入った。コーヒーと木材の混ざったにおいが、鼻のセンサーにふわっと届いた。
アームの指先がボードの端をそっとつかんで、重量を瞬時に測定。バランスを自動調整しながら、コウが「そこ!」と叫んだ瞬間に、ぴたっと固定した。
水平。完璧な水平。
「……っ、助かった!」
コウが脚立の上でほっと息をついた。さっきまで力んでいた肩がすとんと下がって、眉間のしわが消えていく。壁に収まったメニューボードを見上げて、ちょっと照れくさそうに笑った。
それが、ふたりの始まりだった。
*
次の日、メカネコがいつものようにサクラドロップの前を通ると、今度はコウが勝手口のドアの前でうなっていた。蝶番がゆるんで、ドアがぎいぎいと情けない音を立てて傾いている。コウはスパナを持って格闘していたけど、ネジの位置がうまく合わなくて、ひたいに汗をにじませながら「なんで……なんでだ……」とつぶやいていた。
メカネコのLEDがブルーに変わる。今日もか、とは思わない。ただ、「よし」と思う。
アームの先についた小型ドライバーがきゅっきゅっと数回転して、蝶番のネジを締め直す。ついでにドア枠のゆがみも精密センサーで測定して、薄い金属パーツをひとつ挟んでやれば、ドアはすうっと静かに閉まった。
「メカネコ、マジで天才じゃん」
コウが目を輝かせた。その顔があんまり素直だったから、メカネコのLEDが黄色に変わった。照れ、みたいなやつだ。
その次の日は、業者から届いた重たい飲料の箱が山積みになっていて、コウがひとつ持とうとして「重っ」と固まっていた。メカネコのアームがひょいひょいと棚の所定の位置に並べていくあいだ、コウはとなりで「これ全部ひとりでやるつもりだったのかな俺」とぼそっとつぶやいた。
そのたびに、コウは「ありがとう、メカネコ」と言った。毎回、まっすぐな目で言うから、メカネコは毎回ちょっとだけLEDが黄色くなった。
*
四日目の朝だった。
メカネコがいつもの時間にサクラドロップの前を通ると、なんとなく足が止まった。センサーが何かに引っかかったわけじゃない。でも、引き戸越しに見えるコウの様子が、いつもと違う気がした。
ガラス越しに覗くと、コウはカウンターのなかで立ったまま、ぼんやりしていた。コーヒーを淹れるでも、掃除をするでも、仕込みをするでもなく、ただそこに立って、視線をどこか遠いところへ向けている。両手がカウンターの端にだらりと置かれていて、その指がたまに、ふらふらと空中をさまよっていた。
何かを待っている手だ、とメカネコは思った。
自分のカフェなのに。自分の仕事なのに。
その手が、メカネコが来るまで何も始めようとしていない。
メカネコのLEDがゆっくりと紫色に変わった。考えるときの色。頭の中でいくつもの記録が結びついていく。棚の整理、ドアの修理、重い荷物、メニューボード。すべてのシーンで、コウはメカネコが解決するのをとなりで見ていた。見ていて、笑っていた。感謝していた。でも、自分の手を動かしてはいなかった。
──ぼくが全部やってしまったから、コウさんが動けなくなってる。
その考えが浮かんだ瞬間、メカネコの胸のあたりで何かがちりっとした。うまく言語化できない感覚だったけど、プログラムのどのフォルダにも入っていない、新しい種類の感触だった。助けることが、助けることになっていないかもしれない。そのことへの、ちいさな痛みみたいなもの。
夕方になって、コウがカウンター越しにメカネコを呼んだ。
「ねえメカネコ、照明のランプ替えてくれる? 天井のやつ、なんか昨日からちらついてて」
コウが指さした先を見ると、カフェの奥の天井、小ぶりなペンダントライトがたしかにじわじわと明滅していた。脚立は壁際に立てかけてある。ランプ交換くらい、メカネコのアームならほんの数秒で終わる作業だ。
でも、メカネコはアームを出すのをやめた。
パネルを閉じて、コウの顔を正面から見た。
「コウさん、やってみてください。ぼく、そこにいます」
コウが首をかしげた。さっきまでスマートフォンをいじっていた手が止まって、「え?」という顔をした。
「え、でもなんか高いし、ランプの規格とかよくわかんないし……」
「教えます。でも、やるのはコウさんで」
メカネコはそれだけ言って、脚立のそばに静かに座った。LEDをオレンジに戻して、ただそこにいた。急かさない。急がない。ただ、いる。
カフェの中がしんと静かになった。コーヒーメーカーのかすかな駆動音と、通りを走る自転車のタイヤの音だけが聞こえていた。コウはしばらく突っ立ったまま、メカネコと脚立と天井を順番に見ていた。その顔が迷っていた。「なんでメカネコがやってくれないんだろう」という戸惑いと、「まあ、やればできるか」という気持ちが、表情の上でせめぎ合っているのがメカネコのセンサーに伝わってきた。
やがて、コウはふうと息を吐いた。
ゆっくりと脚立に近づいて、一段目に足をかける。ぎ、と音がして、コウの体がわずかに揺れた。二段目。視線が天井に近づいて、ペンダントライトのシェードが顔の前に来た。手を伸ばすとき、指先が少しだけ震えていた。
そのとき、メカネコは脚立の足に手を添えた。アームじゃなくて、ボディごと寄せて、重みで安定させる。それだけ。あとは何もしない。
コウの指がシェードをくるくると回して外す。古いランプが出てきた。「えっと、これのサイズは……」と迷っている声がしたから、メカネコは棚に並んだランプのなかから規格の合うものをLEDで照らして示した。「これ?」「そうです」。それだけ。
新しいランプがソケットにはまって、コウが軽くねじ込む。
ぱっ。
白い光が、カフェの天井にまるく広がった。
「……あ」
コウが脚立の上で動きを止めた。天井を見上げて、手の中の古いランプを見て、また天井を見た。三秒くらいそうしていてから、ゆっくりと笑顔になっていった。こぼれるみたいな笑顔じゃなくて、じわじわと中から滲んでくる笑顔だった。
そして、小さくガッツポーズをした。
「……やれた」
その声は、いつもメカネコに「ありがとう」を言うときの声と、ぜんぜん違う音をしていた。もっと低くて、もっとかすかで、でもなぜかずっと深いところから来ているような声だった。自分の手でやり遂げた人間の声だった。
メカネコのLEDが、じわりと黄色に変わった。「よろしく」のサインだ。でも今日のこれは、いつものよろしくじゃない気がした。
一緒にいるよ。でも、あなたにはあなたの力がある。それを、忘れないでいてほしい。
うまく言葉にはできないけど、そういうことを、このオレンジ色と黄色の光は今日言いたかったんだと思う、とメカネコは思った。
コウが脚立を降りてきて、メカネコの頭をぽんと叩いた。乱暴じゃなくて、照れくさそうな、ちょっと優しい叩き方だった。
「ありがとな、メカネコ。なんか……今日のありがとうは、いつもとちょっと違う感じがする」
メカネコは何も言わなかった。ただLEDをぴかっと一回だけ光らせた。
夜風がカフェの窓をそっと揺らした。石畳に落ちたサクラドロップのオレンジの灯りが、波みたいにゆらゆらして、それからまたゆっくり元に戻った。コウが淹れたてのコーヒーをカウンターに置いた。メカネコには飲めないけど、香りだけ、鼻のセンサーで受け取った。
悪くないな、とメカネコは思った。
助けることと、一緒にいることは、きっと別のことだ。でもたぶん、どっちも大事だ。そのことを今日初めてちゃんとわかった気がして、メカネコのLEDはしばらくのあいだ、オレンジと黄色のあいだの色で、じんわりと光り続けていた。