第5章
メカネコと助け合いの輪

その日の朝、商店街の入り口はいつもより少しだけ空気が澄んでいた。
昨夜の雨がアスファルトをきれいに洗い流したせいか、石畳のひとつひとつがつやつやと光っていて、朝の白い陽射しを反射している。八百屋のケンジさんが店先に野菜を並べ始める音、豆腐屋のおじさんが木の板を引き出す音、どこかの店のシャッターがガラガラと上がる音。商店街が目を覚ます、いつもの朝の音楽だ。
その音の中を、メカネコはいつものようにてくてく歩いていた。
特に急ぐ予定はない。目的地もない。ただ、朝の商店街のにぎわいが始まる前のこの時間が、なんとなく好きだった。人がまだ少ないぶん、町の息遣いみたいなものがよく聞こえる気がするのだ。センサーにかかってくる情報の量もちょうどいい。多すぎず、少なすぎず。
LEDはおだやかなオレンジ色。「まあまあ良い朝」のサインだ。
そのとき、聞き慣れた声が飛んできた。
「ちょうどよかった。ちょっと来てくれないかい」
振り向くと、ハナさんがエプロンの裾をぱたぱたさせながらこちらへ向かってくるところだった。先週、重たい荷物を持っていたところを助けて以来、すっかり顔なじみになったハナさんだ。いつもはゆったりした笑顔で話しかけてくれるのに、今朝はちょっとだけ違う。困っている、というのとも違う。なんというか——目がわくわくしている。
メカネコのLEDがきょとんとした水色に変わった。「なんだろう?」モードだ。
「どうしました?」
「まあ、ついておいで。説明するよりこっちが早い」
ハナさんはそれだけ言うと、くるっと向きを変えてすたすたと歩き始めた。メカネコはアンテナ耳をぴくっと動かして、その背中を追いかけた。
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連れていかれた先は、商店街の外れにある小さな広場だった。
普段はここ、お昼ごろになると近所のおじさんたちが将棋を指していたり、小学生が自転車の練習をしていたりする場所だ。でも今の時間はまだ誰もいなくて、色あせたベンチがひとつと、小さな花壇がひとつ、それだけが静かにそこにあった。花壇のパンジーが、風にくるくると揺れている。
ただ、今日はひとりだけいた。
広場の真ん中に、見慣れない女の子が立っていた。
髪を高く結んで、大きなリュックを肩に背負って、両手には「われもの注意」と赤いマジックで書かれた段ボール箱を抱えている。服装からして、今しがた引っ越してきたばかりなんだろうなということがひと目でわかった。ただ、それよりもメカネコのセンサーが先に捉えたのは、その子の表情だった。
迷子の顔、というやつだ。
道に迷った、という意味ではたぶんない。もっと大きな意味で——新しい場所に来て、何もわからなくて、どこから始めればいいかもわからなくて、でも誰かに頼るほどのことでもないような気もして、そのまま広場の真ん中にぽつんと立っている。そういう顔。
「引っ越してきたばかりで……この町のこと、全然わからないんです」
女の子は少し恥ずかしそうに、でもまっすぐに話しかけてきた。声は小さかったけど、ちゃんと届いた。名前はミオ、十二歳。段ボールを持つ指先がほんの少し白くなっていた。きっと重たいのを、ずっとひとりで持っていたんだろう。
メカネコはしばらくミオを見つめた。
ロボットだから、人の気持ちを「わかる」とは言い切れない。でも、センサーが拾う情報——肩の力の入り方、視線の落とし方、声のトーン——それらが組み合わさって、なんとなくこう伝わってくる。この子は「助けて」って言うのが苦手なんだな、と。でも本当は、ほんのちょっとだけ、誰かに助けてほしいんだな、と。
LEDがすっとブルーに変わった。
「任せてください」
胸元のパネルをぱかっと開く。パネルの向こうで小さなモーターが起動する感覚が、メカネコには心地よかった。出番だ、という合図みたいで。
ホログラム機能が起動すると、空中にふわっと光の地図が展開した。ネオサクラシティの地図だ。ぱっと見では情報が多すぎるかもしれないから、センサーが判断して、ミオが今一番必要そうなものから順番に浮かび上がらせていく。
まず、銭湯の場所。引っ越し直後はなにかとバタバタするから、お風呂だけは外で解決できると助かる。次に、一番近い図書館。本が好きそうな雰囲気を、部屋の本棚ごと段ボールに詰め込んできたっぽいリュックの形から推測した。それから、美味しいパン屋。朝ごはんの選択肢はあればあるほど、新しい朝が少しだけ楽しくなるから。そして、ゴミ捨てのルール。これを最初に知らないと、なにかと困るのだ。
「わあ、すごい!」
ミオの目が、ぱあっと開いた。
さっきまでの迷子みたいな表情が、ほんの一瞬で変わった。段ボールを抱えたまま、ホログラムの地図に顔を近づけて、「ここが銭湯?」「このパン屋ってどんな感じですか?」と次々に聞いてくる。声が、さっきより三倍は明るくなっていた。
メカネコのLEDが、うれしそうな黄色にぱっと光った。
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そのとき、広場に面した八百屋の方から、がらがらっと音がした。
「おいおい、メカネコじゃないか」
ケンジさんが店先から顔を出して、のっしのっしとこちらへ歩いてくる。がっしりした体に白いエプロン、額にはいつも手ぬぐいを巻いているケンジさんは、商店街の中でもひときわ存在感がある。一度だけ、重たい荷台がタイヤのパンクで動かなくなったときに手伝ったことがあって、それ以来「メカネコ、メカネコ」と気安く声をかけてくれる。
「引っ越しか?大変だったな。どこから来た?」
ミオが「えっと、少し遠い町で……」と答えると、ケンジさんはうんうんと大きくうなずいて、それからメカネコを指さした。
「おい、ちょうどいい。この子に野菜の切り方も教えてやってくれ。一人暮らしらしいから」
一人暮らし。その言葉を聞いた瞬間、メカネコのセンサーがぴんと反応した。十二歳で一人暮らし、というのはどういう事情があるのかわからない。でも今はそこに踏み込む必要はなかった。今この子が必要としているのは、情報でも同情でもなくて、「この町でひとりでも暮らしていける」という手がかりだ。
「わかりました」
ホログラムの地図が、ふわっとレシピ画面に切り替わった。シンプルな野菜炒めの作り方。包丁の持ち方から始まって、にんじんとピーマンと玉ねぎの切り方、火の通し方。メカネコの細いアームが伸びて、実際に動かして見せると、ミオが段ボールを一瞬地面に置いて、身を乗り出した。
「こうやるんですか。やってみたい」
「やれますよ。絶対」
LEDが黄色のまま、ちかっと光った。
すると今度は、すぐそばの花屋のガラス戸がからりと開いた。トモコさんだ。細いメガネをかけて、いつも少しだけ花の香りをまとっているトモコさんは、今朝も色とりどりの花束を手に持っていた。
「新しい住人さんなら、ご近所さんへのご挨拶にこのお花どうぞ。小さいけど、持っていくと印象がだいぶ違うから」
黄色いミモザと白い小花が混ざった、てのひらサイズの花束だった。ミオはきょとんとして、それからぺこりと頭を下げた。「ありがとうございます」と言う声が、また少し、さっきより明るくなっていた。
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いつの間にか、広場に人が増えていた。
豆腐屋のおじさんが「近所のスーパーの特売日を教えてあげよう」と言いながら近寄ってきて、カフェの店員のユキさんが「最初の一週間は迷子になるから、地図は保存しておきな」と笑いながら声をかけてくる。みんな、なんとなく足を止めて、なんとなく広場の方へ集まってきていた。
メカネコは少し離れたところから、その光景をじっと見ていた。
よく見ると、顔ぶれがわかった。ハナさんは去年の冬に荷物を運んだ人で、ケンジさんは荷台を直した人で、トモコさんは重たい観葉植物の鉢を運ぶのを手伝った人だ。ユキさんも、豆腐屋のおじさんも——全員、どこかで一度は「ちょっとだけ困っていた」ところに、メカネコが居合わせた人たちだ。
あ、とメカネコは思った。
それまでぼんやりと「磁石みたいに引き寄せられる」と感じていたのは、困っている人の気配だけじゃなかった。助けてもらった人たちが、今度は自分の手で次の誰かに何かをしてあげようとする——そういうエネルギーが、この町の空気の中にたしかに流れていた。そしてその流れの真ん中に、なぜかいつも自分がいる。
プログラムで説明できるような話ではなかった。センサーが数値に変換できるような現象でも、たぶんない。でも、確かにそこにある何かを、メカネコはその朝、初めてちゃんと感じた気がした。
ミオが花束を受け取って、「重い段ボールはケンジさんが持っといてあげる」と言われて、少し照れながら笑った。その笑い方が、さっきの迷子の顔とは全然違って、ちゃんと今ここにいる人間の顔だった。
メカネコはアンテナ耳をゆっくりと一度動かして、それからまた前を向いた。
「メカネコがいてくれてよかった」
ハナさんの声が、すぐ耳の近くで聞こえた。
そっとつぶやいた声だったけど、静かな朝の空気の中でよく通った。メカネコはハナさんの方をちらりと見た。ハナさんは広場のにぎわいを眺めながら、エプロンの裾を両手で軽く握って、柔らかく目を細めていた。その顔は、感謝というよりも、もっと深いところから来る何かに満ちていた。
LEDが、あたたかいオレンジ色にゆっくりと灯った。
朝の光が石畳に伸びて、広場のパンジーがまた、くるりと風に揺れた。メカネコはそれをぼんやりと眺めながら、「なんかいい」というよりももう少し大きな何かが、胸の中でじわりと広がっていくのを感じていた。
なんて呼べばいいのか、まだよくわからない。
でも、悪くなかった。