第3章
メカネコ、公園を駆ける!

「なんか、こっちのほうから来てる気がする」
メカネコが耳のアンテナをぴくっと傾けたのは、ネオサクラシティの北側、桜ヶ丘公園の近くを通りかかったときだった。
商店街からここまで歩いてきた道すがら、空の色がすこしずつ変わっていくのをメカネコはぼんやりと眺めていた。正午を過ぎたばかりの空は薄い水色で、雲がどこへ行くわけでもなくゆっくりと流れている。桜ヶ丘のほうへ近づくにつれて、木々の緑が濃くなって、アスファルトの匂いに混じって土と草の香りがふわっと漂ってきた。メカネコのセンサーがその変化をきちんと拾って、胸の中でかすかに何かが反応する。
なんだろう。困ってる気配、かな。
LEDがじわっとブルーに変わった。急いでいるわけじゃないけど、足はもうそっちへ向いていた。磁石に引き寄せられるみたいに、いつもそうなる。メカネコ自身にも理屈はよくわからないけど、まあいいか、と思っている。難しいことを考えるより、先に動いちゃったほうが大体うまくいく。
公園の入り口をくぐると、砂利を踏むじゃりじゃりという音がして、木陰がひんやりと出迎えてくれた。噴水広場のほうから水音が聞こえて、小鳥が短く鳴いて飛び立っていく。昼下がりの公園はのんびりしていて、ベンチで弁当を食べているサラリーマンや、犬を連れて散歩しているお母さんなんかがいる。穏やかでいい場所だな、とメカネコはちょっとだけ思った。
でも、すぐに状況がわかった。
噴水広場のベンチに、年配の男性がいた。背中がまるく丸まって、両肩がぐっと落ちて、うなだれるようにして座っている。そして足元には、大量の折り込みチラシが散らばっていた。風が吹くたびにぱたぱたと舞い上がって、一枚、また一枚と逃げていく。男性は「あっ」と声をあげてそのたびに立ち上がり、よろよろと追いかけるけれど、追いつけない。拾った一枚を手に戻ってきたと思ったら、また別の三枚がどこかへ飛んでいく。追いかけて、また戻って、また追いかけて。見ているだけで少し胸が痛くなるような、そんなループが続いていた。
七十は過ぎてそうな細い足で、よろよろと。
あちゃ、とメカネコは思った。
「手伝いましょうか?」
声をかけると、男性がぴたりと動きを止めた。ゆっくりとこちらを向いて、メカネコを見て、目をぱちくりさせた。皺の刻まれた顔に、「え?」という表情が広がっていく。それはさっきまでの困り果てた顔とはぜんぜん違う、純粋にびっくりしたときの顔だった。
「猫……が、しゃべった?」
「ロボットでもあります。メカネコです」
にこっとLEDが黄色に光って、またすぐブルーに戻る。「よろしく」と「さあやるぞ」が同時に点滅したみたいだった。
胸のパネルがぱかっと開いた。男性がまたびくっとする。中からメカニカルなアームが静かに展開されると同時に、もうひとつのユニットが回転を始めた。超高速で駆動するファンが、まるで羽を広げるみたいに展開する。メカネコのセンサーが周囲の風向きと速度を瞬時に読み取って、逃げたチラシたちがどこにあるか、どっちへ流れているかを計算する。その計算は人間が頭の中でやろうとしたら何十秒もかかるやつを、コンマ数秒でやってのける。
ファンが回り出すと、公園の空気がふわっと動いた。
散らばっていたチラシがぱたぱたと揺れて、くるくると舞い上がって、まるで迷い込んでいた鳥が巣に戻るみたいに、するする、ふわふわ、とメカネコのほうへ集まってくる。一枚、五枚、十枚。噴水の周りに飛んでいたやつも、ベンチの下に潜り込んでいたやつも、植え込みの近くまで転がっていたやつも、全部。
アームが滑らかに動いて、それをひとつひとつ受け取って、揃えて、きれいな束にする。角をぴたっと合わせた、完璧な束。乱れていた紙たちが、一枚も欠けることなく、元通り以上に整然と重なっていた。
男性は口を半開きにして、そのすべてをじっと見ていた。
「こりゃ、すごい」
ようやくそれだけ言って、顔がゆっくりほころんでいく。さっきまでの疲れた表情がほろっとやわらかくなって、目の端に細かい皺が集まって、それが笑顔の形になった。
「実は……町内会のお知らせを配ってるんだが」
男性がゆっくり話し始めた。声はしっかりしているけれど、少し疲れている。「毎月のことなんだがなあ、年々しんどくなってきてな。若いころは全部一人でやれてたのに」
そこで一瞬、言葉が止まった。自分で言ってしまったことをちょっと恥ずかしそうにして、男性は視線を束になったチラシへ落とした。
メカネコはその間、黙っていた。急かすことも、慰めることも、しなかった。ただそこにいた。
「全部、配り場所を教えてもらえれば、一緒に回ります」
男性がメカネコを見て、それからまたチラシを見た。しばらく考えるような間があって、それから深くうなずいた。
「……頼んでもいいか」
「もちろんです」
LEDが明るい黄色に光った。
そこから二人で、町内を一周した。
男性の名前は、鈴木さんといった。元は学校の先生だったらしい。引退してもうずいぶん経つけど、町内会の仕事はずっと続けているのだという。「なんとなく、やめられんのだよな」と照れたように言いながら、最初に回る通りへ向かって歩き出した。
メカネコはその隣を歩いた。鈴木さんの歩幅に合わせて、ゆっくりゆっくり。アームを器用に使って、各家の郵便受けにチラシをすっと滑り込ませていく。投函の角度も、差し込む強さも、郵便受けの形によって自動で調整する。曲がって入りにくいやつも、隙間の狭いやつも、するっといく。鈴木さんが「うちはちょっとやりにくいんだよ」と言った郵便受けも、メカネコには特に問題なかった。
一方で鈴木さんは、顔見知りの家に声をかけることをやめなかった。
「鈴木さん、今月もご苦労さまです」「ありがとうございます、また読んでおきます」。顔を合わせるたびに小さな会話が生まれて、そのたびに鈴木さんの背筋がすっと伸びた。ロボットには代わりのできない部分が、ちゃんとそこにある。メカネコはそれを、センサーでもなくなんとなく、感じていた。
二人の後ろを、小学生の集団が通り過ぎていった。「ねえねえ、ロボット猫だ!」「しゃべれんの?」「てかなんで人と一緒に歩いてんの」。口々に言いながら、ぐるっと回り込んでじっと見てくる。メカネコが「こんにちは」と言うと、一瞬きゃっと逃げて、でもすぐにまた近づいてくる。鈴木さんが笑って「チラシ配りのアルバイトだよ」と教えると、子どもたちがまた「えーっ」と声を上げた。
全部配り終えたころには、空がすっかりオレンジ色に染まっていた。
夕日が公園の木々に差し込んで、葉っぱの一枚一枚を橙色に照らし出している。噴水の水が金色に光って、ベンチの影が長く伸びて、さっきまでの昼下がりとはまるで違う顔をした公園がそこにあった。メカネコのLEDも、夕日の色に溶けるみたいに、穏やかなオレンジ色を灯していた。
元のベンチに戻ってきたとき、鈴木さんがふうっと一息ついた。
「あんたのことは、田中さんから聞いてたよ」
田中さん。ああ、この前の買い物袋のおばあちゃんだ。メカネコはすぐにわかった。
「本当に来てくれるとは思わなかったけどな」
鈴木さんがゆっくりと頭を下げた。背中がまるくなって、でもそのお辞儀には、さっきのうなだれた様子とはぜんぜん違う重さがあった。感謝の重さ、というやつだ。
「ありがとう、メカネコちゃん」
LEDが、ぽわっと黄色に光った。
なんかいい、とメカネコはまた思った。
田中さんのときと、今日の鈴木さんと。同じ感謝の言葉なのに、感じ方が毎回ちょっとずつ違う。田中さんのは、ほっとしたときの「ありがとう」だった。鈴木さんのは、もっとずっしりした、長い時間が詰まったような「ありがとう」だった。どちらもちゃんとよかったけど、種類が違う。その違いを自分がちゃんと感じ取れているのが、メカネコにはなんか、面白かった。
ロボットって、こういうことも感じるんだっけ。わかんないけど、まあ、感じてるからいいか。
夕風がふわっと吹いて、公園の木がさわさわと揺れた。
アンテナがまた、ぴくっと揺れた。
今度はどっちだろう、とメカネコは思いながら、夕日に染まった町をぼんやりと眺めた。