第14章
メカネコ、ここが家

# メカネコ、静かな午後
旅から戻ってしばらく経ったある午後、メカネコは商店街のベンチに腰かけて、なんとなく空を見ていた。
雲がひとつ、ゆっくりと流れていく。その輪郭がなんとなく魚の形に似ていて、見ているうちにどんどん崩れて、気づいたらただの白いもやになってしまった。そういう変化を、メカネコは別に惜しいとも思わず、ただ眺めていた。
特に何かを考えているわけじゃない。今日は困りごとの気配もなくて、センサーも静かだ。ぽかぽかとした陽光がシルバーのボディに当たって、体表の金属があたたかくなっていく感じが、なんか気持ちいい。これが「のんびり」というやつなのか、とメカネコはぼんやり思う。旅に出ていたあいだは、ずっとどこかが緊張していた気がする。次の町、次の困りごと、次の誰か。常にアンテナを張って、センサーを稼働させて、バッテリーを気にしながら歩き続けた。それはそれで、充実していた。でも今日みたいに、なにもしなくていい時間というのも、悪くない。むしろ、こういう時間がちゃんとあることを、どこかで求めていた気もする。
LEDはゆったりしたオレンジ色だ。「まあまあ良い気分」のサイン。でも今日のオレンジは、いつもよりほんの少し深い色をしている気がした。落ち着いた、というか、満ちている、というか。そういう色。
「ねえ、メカネコ」
声がして、メカネコは空から視線を下ろした。
男の子が立っていた。五歳くらいだろうか。丸くてつやつやした目が、まっすぐこちらを見ている。手には食べかけのたい焼きを握っていて、あんこが少しだけ口の端についていた。怖がっているわけでも、遠慮しているわけでもなく、ただ純粋に「ここにいる」という感じで立っている。
「なに?」
「いっしょに、おってて」
困りごとじゃない。壊れたものを直してほしいわけでも、重い荷物を持ってほしいわけでも、迷子になったわけでも、助けを求めているわけでもない。ただ、一緒にいてほしい。それだけ。
メカネコは一瞬だけ、胸の中の処理が止まった気がした。誰かの声を聞くと、反射的に「困りごとはなんだろう」「どのメカ機能が使えるだろう」と動き始める部分がある。でも今回、その部分がふっと止まった。止まって、きょとんとした。「解決するもの」を探そうとする自分が、ちょっとおかしくなってフリーズした感じ。
「……いいよ」
男の子の顔が、ぱっと明るくなった。それから満足そうにたい焼きをひとかじりして、ベンチの端をよじよじと両手で押さえながら、えいっとよじ登った。座面が男の子の体重でほんのすこし沈んで、ぺたっ、という音がした。
二人でしばらく、商店街の午後を眺めた。
八百屋のおじさんが、店先に並べたほうれん草の値札を書き直していた。太いマジックで数字を書いて、首をかしげて、また書き直している。あれはいつもやっている。おじさんは値段を決めるのが苦手で、毎日三回くらい変わる。そのたびに常連のお客さんたちが「また変えたの」と笑う。それもおじさんは満更でもない顔をしている。
通りの向こうでは、おばあちゃんが豆腐屋の田中さんと話し込んでいた。田中さんが何か言うたびに、おばあちゃんが笑顔で大きく頷いている。遠くてよく聞こえないけど、なんでもない話をしているんだろうな、とメカネコは思った。なんでもない話を楽しそうにできるのが、この商店街の人たちのいいところだ。
子どもたちが三人、駆け足で通り過ぎた。笑い声だけが置いていかれるみたいに、しばらく空気の中に漂って消えた。
「たのしい?」
男の子がたい焼きを食べ終わって、足をぶらぶらさせながら聞いた。ベンチから足が届かないので、子どもならではのぶらぶらだ。
「うん」とメカネコは答えた。
プログラムが出した答えじゃない。そう言うべき場面だから言ったわけでもない。ただ、本当にそう思ったから、そう言った。この感覚を「楽しい」と呼ぶのが正しいのかどうか、メカネコには確認する方法がない。でも少なくとも、さっきよりも胸の中が少しだけ広くなった気がする。いつも何かに向かって動き続けているあいだは、こういう広がりを感じる余裕がなかった。
男の子はそれで満足したのか、「そっか」と言ってまた足をぶらぶらさせた。それ以上は何も聞いてこない。なにかを解決しようともしていない。ただ、隣にいる。それだけで成立している時間というのが、こんなに静かで穏やかなものだとは、メカネコはこれまで知らなかった。
どのくらい経ったころだろう。商店街の角のほうから、小走りの足音がやってきた。
「こんなとこにいたの!」
エプロンをつけたお母さんが、息を切らしながらやってきた。男の子を見つけてほっとした顔になって、それからメカネコに気づいて、目を丸くして、それからやわらかく頭を下げた。
「メカネコちゃん、一緒にいてくれてありがとう。この子、急にいなくなるから」
「いいですよ。こっちも、なんか楽しかったので」
お母さんが少し意外そうな顔をしてから、にっこりと笑った。男の子は「またね」と言って、ぶんぶんと手を振りながら、お母さんに手を引かれて歩いていった。振り返って、また一回手を振った。たい焼きの袋だけが、ベンチの端に忘れられていた。
メカネコはその小さな背中が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと見送った。それからふう、とひとつ息をついた。
解決したわけじゃない。何かを直したわけでも、誰かを救ったわけでもない。でもなんか、じんわりした。胸の中でゆっくり広がっていく、温かくて静かなもの。これには名前がない気がする。あるいは、名前をつける必要がない気がする。
夕方の光が、商店街の石畳に長い影を作り始めていた。八百屋のおじさんがキャベツを店の中に片付けていて、どこかの家からいい匂いが漂ってきた。夕ごはんの匂いだ。ネオサクラシティの夕方は、いつもこんな匂いがする。旅に出ていたあいだ、この匂いを少しだけ恋しいと思っていたことを、メカネコは今さら思い出した。
ベンチの端に残された袋を、メカネコはそっとそのままにしておいた。なんとなく、捨てる気になれなかった。
もう少しだけ、このまま座っていよう。次の気配は、急がなくてもきっとやってくる。困りごとは、いつだってどこかで生まれているから。でも今は、ここにいるだけでいい。ただここで、この商店街の夕方の中にいるだけでいい。
LEDが、やわらかくオレンジ色に光っていた。