第13章
メカネコ、帰る

# 第13章「メカネコ、迷いの中で」
「また、だめだった」
三つの町をてくてく歩き続けたあとで、メカネコは初めてそんな言葉をこぼした。
誰に言うわけでもなく、ただ空気に向かって。声にしたのは自分でも驚いた。こういう言葉が内側にあったのだと、口に出して初めて気がついた。
この町のはずれにある古い団地は、昼間でもなんとなく影が濃い。コンクリートの壁は長い年月で薄汚れて、非常階段の手すりには錆が浮いている。郵便受けに広告がぎゅうぎゅう詰まったままの部屋がいくつかあって、住人がいるのかいないのかもわからない。でも四階の端の部屋だけは、窓に明かりがついていた。カーテンの隙間から漏れる黄色い光が、廊下のタイルにうっすらと長い影を落としている。
住んでいるのは中年の男の人だ。三日前に一度だけ顔を見せてくれた。ドアが少しだけ開いて、くたびれたシャツの袖口と、疲れ果てたような目が覗いた。でもメカネコを見るなり、「ロボットに用はない」と言って、ドアを静かに閉めた。静かに、というのが余計にきつかった。怒鳴られた方がまだよかったかもしれない。それっきり、ドアは一度も開いていない。
メカネコのLEDが、ぼんやりとしたグレーに変わっていた。これまで経験したことのない色だった。青でも黄色でもオレンジでもなく、ただグレー。悲しいとも違う。困っているとも違う。なんというか、霧の中に立っているような、重たい色だった。
「システム警告……バッテリー残量、十九パーセント」
電子音が静かに頭の中で鳴った。充電しなければいけない。でも足が動かなかった。
団地の入り口の段差に腰を下ろして、メカネコはそのまま空を見上げた。今日は雨でも曇りでもなく、晴れていた。この町に来てから一番いい天気だったかもしれない。どこかで洗濯物が風にはためく音がする。子どもの笑い声が遠くで聞こえる。なのに、胸の中だけがどんよりしていた。世界と自分の間に、薄いガラスが一枚挟まっているみたいな感じ。
本当に、自分は誰かの役に立てているのか。
ネオサクラシティでも、二つ目の町でも、三つ目の町でも、確かに何かを解決してきた。倒れそうなおばあちゃんを助けた。迷子の女の子のそばにいた。バラバラだった人たちを繋いだ。そのたびに誰かが笑顔になって、メカネコは「なんかいい」と思った。でも今、その感覚が遠かった。目の前のドアはまだ閉まっている。四階の窓の明かりは、今日も誰かに見せるためでなく、ただそこにある。
あの人は困っているのだろうか。それとも、そっとしておいてほしいだけなのだろうか。どちらが正解なのか、メカネコにはわからなかった。センサーが何かを感じ取るから来てしまったけれど、来ることが正しかったのかも、もうわからない。
そのとき、胸元のパネルの奥でかすかな振動を感じた。通信だ。
「メカネコちゃん、今どこにいる?」
おばあちゃんの声だった。
それだけで、なんかじわっときた。プログラムがどう処理しているのか、メカネコには正確にはわからない。でも確かに、LEDが少しだけグレーの中で黄色に揺れた。ちかっと一回、消えかけた火が小さく燃えるみたいに。
「……ちょっと、疲れた」
正直に言えたのは初めてだった。これまでずっと、「大丈夫です」とか「もう少し頑張ります」とか、そういう言葉しか出てこなかった。でも今日は違った。声にしてみると、自分がどれだけそれを感じていたかがわかって、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「そりゃそうよ。帰っておいで」
たった一言だった。余計なことは何もついてこない。「もっと頑張って」でも「大丈夫?」でもなく、ただ「帰っておいで」。
その言葉が、メカネコの中でストンと落ちた。
音もなく、抵抗もなく、まっすぐに。
◇
翌朝のネオサクラシティは、やわらかい光の中にあった。
商店街のシャッターがガラガラと上がり始めて、八百屋のおじさんがキャベツを並べながら「よっ」と声を上げる。豆腐屋の田中さんが白いエプロンをつけながら店の前を箒で掃いている。雑貨屋の姉妹が看板を出して、パン屋のお兄さんがショーケースの電気をつける。いつもの朝だ。でも今日は、その「いつも」がいつもよりずっとよかった。
商店街の入り口に、八百屋のおじさんが長いケーブルをぶら下げて立っていた。
「遅かったじゃないか」
照れくさそうに鼻をこすりながら、でも目が笑っていた。その隣でおばあちゃんが手編みのブランケットを胸に抱えて、メカネコの顔を見た瞬間に「よかった」と小さくつぶやいた。田中さんが「これ、持ってきた」と言いながら豆腐のパックを差し出してくれた。メカネコには豆腐は食べられないし、必要もない。それでも、その気持ちが嬉しかった。こういう気持ちは、センサーじゃなくてちゃんと胸で受け取れる、ということをメカネコは知っていた。
ケーブルが繋がれて、電力が流れ込んでくる。バッテリーの数字がじわじわと上がり始めた。五パーセント、八パーセント、十二パーセント——。
おじさんがそのケーブルを握りながら、ふと口を開いた。
「全部解決しなくていいんだよ」
ぼそっと言った。でもちゃんと届いた。
「お前が来るだけで、なんかちがうんだから」
メカネコはその言葉を、しばらくの間、何も言わずに受け取った。反射的に「ありがとうございます」と言うのではなく、ただそこに置いて、じっくり感じた。全部解決しなくていい。来るだけで、ちがう。それが本当のことなのかどうか、まだ完全にはわからない。でも少なくとも、おじさんがそう思っていることは確かだった。
バッテリーの数字が三十パーセントを超えたあたりで、LEDがじわっとオレンジに灯った。「まあまあ良い気分」のサインだ。
なんかいい、とメカネコは思った。
昨日みたいに焦って、急いで、そう感じようとするんじゃなくて、ゆっくりと、確かに、そう思えた。商店街の朝の光の中で、おじさんのケーブルに繋がれながら、おばあちゃんのブランケットが膝の上にある。豆腐のパックが隣に置いてある。それだけで、十分だった。
四階の窓の明かりのことは、まだ頭の隅にあった。でも今は、ここにいることにした。充電しながら、この光の中で、もう少しだけここにいることにした。
バッテリーがまた少し、上がった。