第9章
血覚醒、鬼の使者現る

# 第8章「目覚める血と、鬼の使者」
「入ってくるな」
澄江の声が、空気を切るように響いた。
か細い老人の声じゃない。低くて、芯があって、部屋の壁にまで染み込んでいくような声だ。桃太郎はその一言で、背筋がしゃんと伸びる感覚を味わった。
チャイムはまだ鳴り続けている。リズムが一定じゃない。ピンポン、ピンポン、ピンポン——機械的で、感情がない。でもその無機質さが、逆に怖かった。普通の人間なら、二回か三回鳴らして応答がなければ諦める。でもあれは、諦める気配がまったくなかった。
「ばあちゃん、誰が来たの」
桃太郎の声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
「見なくてもわかる。鬼の使いだ」
澄江は桃太郎の方を見もせず、膝の上の木箱に両手を添えた。その指先は皺だらけで骨張っているのに、まるで震えていない。ゆっくりと蓋が開いていく。蝶番がかすかに軋む音がした。
中に入っていたのは、黄ばんだ和紙の札が数枚と、手のひらに収まるほどの小さな朱印だった。インクがすっかり乾いて赤みが薄れているのに、それでも何か言い知れない存在感を放っていた。
「これがお前の家に伝わる継承者の証だよ」
澄江の声は静かだった。波一つない水面みたいに。
「桃太郎の血に反応する。今、お前の掌が熱いだろう」
言われて、桃太郎はやっと気づいた。
さっきから右手がおかしい。火傷のじりじりした痛みじゃなくて、もっと内側から来る感覚。脈打つような、体の奥で何かが燃えているような。意識を向けた瞬間、その熱がぐっと強くなった気がした。
「秘伝書に書いてあっただろ。恐怖を越えたとき、力は目覚めるって」
澄江の目が、まっすぐに桃太郎を捉えた。深くて、静かな目だ。何十年もの時間が積み重なった目。
「今、目覚めかけてる」
その言葉が終わった直後だった。
廊下の奥で、音がした。
玄関ドアじゃない。壁の向こう、階段のほうから聞こえてくる。一つじゃない。二つでも三つでもなくて、もっとたくさんの、重い足音。コンクリートを踏みしめる音が、一定のリズムで近づいてくる。
「団地の住民も、もうやられてる」
澄江はそう呟いて、表情一つ変えなかった。
桃太郎は思わず窓に目をやった。夜の団地の中庭、いつもなら子どもが走り回っていたり、犬を連れたおじさんが通り過ぎたりする場所が、真っ暗で静まり返っていた。人影がないわけじゃない。むしろある。でも誰も動かない。ただそこに立って、こちらを見上げているような気がした。
足音がまた一段、近づいた。
澄江は木箱から札を一枚取り出し、桃太郎の右手に押しつけた。和紙の手触りが、掌の熱に触れた瞬間、ぴりっとした感覚が走った。電気みたいな、でも痛くない、むしろ懐かしいような刺激。
「竜輔を返してもらう、って言ったな」
桃太郎は澄江の顔を見た。
「言った」
「なら行くよ。あたしも一緒に」
桃太郎は目を見開いた。
この小さくて皺だらけの老人が、一緒に来る。鬼の本拠地へ。その言葉が頭の中でうまく整理できなくて、桃太郎はしばらく何も言えなかった。
「ばあちゃんが?」
澄江は答えなかった。答えの代わりに、木箱の底に指を差し入れて、一枚の古い写真を取り出した。白黒の、色あせた写真。誰かの廃墟みたいな建物の前に、若い女性が一人立っている。着物姿で、腕を組んで、真正面を向いている。まるで戦いに行く前の顔だった。
よく見ると、その顎の線が。目元の鋭さが。
澄江に、似ていた。
「お前だけに使命を押しつけるつもりはないよ」
澄江はその写真を風呂敷の中にしまいながら、ぽつりと言った。
「あたしも昔、同じことをした」
それ以上は話さなかった。でも桃太郎には、十分だった。この人は知っていたんだ。ずっと前から。自分が何者で、これから何が起きるかを。だから七歳の桃太郎が団地に越してきた日から、ずっとあの墨書と家系図を壁に飾り続けてきたんだ。
桃太郎は握り直した。右手の中の、黄ばんだ和紙の札を。
その瞬間、掌の熱が一気に跳ね上がった。
内側から光が溢れるみたいに、白く輝いた。一秒にも満たない、瞬きより短い時間。でも確かにそこにあった。見間違いでも気のせいでもない、本物の光が、自分の手から出た。
澄江が「やっぱりな」と小さく呟いた。それだけだったけど、その言葉に何十年分の何かが詰まっているように聞こえた。
「行こう」
桃太郎は立ち上がった。震えていた膝が、今はしっかりと地面を踏んでいた。
澄江は無言で頷き、残りの札と秘伝書を手早く風呂敷に包んだ。その動きに迷いがない。何度もやってきた動作みたいにすらすらと。桃太郎はそれを見ながら、この人が今夜来るつもりで、最初から準備していたんだと気づいた。
玄関は使わない。澄江が顎でしゃくった先、リビングの窓を開ける。秋の夜風が一気に流れ込んできた。冷たくて、鋭くて、でも不思議と頭が冴える。
非常階段に足をかけた。鉄の格子がかすかに鳴る。桃太郎が先に出て、澄江に手を差し伸べる。老人の手は軽くて、骨の感触がはっきりわかった。でもその握り返してくる力は、思いのほか強かった。
二人は階段を降りた。
見下ろした団地の中庭に、複数の人影があった。灯りの消えた部屋の窓にも、黒いシルエットが張り付いている。深紅の目が、暗がりの中でぽつぽつと光っていた。
でも桃太郎は一度も足を止めなかった。
竜輔の顔を、思い浮かべながら。
鬼の本拠地へ続く道は、まだ誰も知らない。でも今夜、桃太郎は初めてそこへ向かおうとしていた。右手の札を握りしめて、隣に祖母を連れて。