第10章
血覚醒、鬼の使者現る

## 目覚める血と鬼の使者
「開けるな」
澄江の声は低く、静かだった。命令というより、確信だった。
チャイムがもう一度鳴った。今度は長く、執拗に。押しっぱなしにしているみたいに途切れない。桃太郎は思わず玄関の方へ視線を向けた。
「ばあちゃん、誰が——」
「鬼の使者だよ」
澄江はそう言いながら、膝に置いた木箱の蓋をゆっくりと開けた。「お前の気配に引き寄せられた。力が目覚めかけてる、そのにおいがするんだよ、あいつらには」
においで、わかる。そのことが、桃太郎の皮膚をざわりと粟立てた。
木箱の中に入っていたのは、黄ばんだ一枚の札と、小さな丸い石だった。札には細かい文字がびっしりと書かれていたが、墨が滲んで判読できない部分も多い。石は拳の半分ほどの大きさで、表面が微妙にくぼんでいる。まるで誰かが長年握り続けたみたいな形だ。拍子抜けするほどシンプルな代物だった。
でも、その瞬間、桃太郎の掌がさらに熱くなった。
さっきまでの「じわっ」とした感覚じゃない。脈打つような、内側から押し広がろうとするような熱さだ。思わず手のひらを見下ろしたが、何も変わってはいない。ただ熱い。
「その熱さが、お前の力だ」
澄江の声は静かなまま、揺れない。
「恐怖を越えたとき目覚める——秘伝書に書いてあっただろ。今まさに、それが始まってる。お前の血が動き出してるんだよ」
今日一日のことが、桃太郎の頭の中で一気にフラッシュバックした。竜輔の深紅の目。渡り廊下に響いた重なった声。住宅街を走り続けたあの二十分。ふと気づいたら、ずっと恐怖の中にいた。でも今、怖いのとは少し違う感情が混ざり始めている。
もどかしさ、だ。竜輔があそこにいる。竜輔があの目をしている。それがずっと、胸のどこかに刺さったままだった。
廊下の奥から、音が聞こえ始めた。
コン、コン、コン。
規則正しい足音が、階段を上ってくる。一人じゃない。二人でも三人でもない。もっとたくさんの足音が、ゆっくりと、でも確実に上の階へと向かっている。昼間に学校の渡り廊下で輪を狭めてきたあいつらと、同じ歩き方だ。ドアの外が、じわじわと埋まっていく気配がした。
玄関ドアの向こうで、何かが止まった気配がした。
「ばあちゃんも」
桃太郎は声を落として、澄江の横顔を見た。「戦ったの」
澄江はちらりとこちらを見た。答えない。でも、目が答えていた。何十年もの時間が刻まれた皺の奥で、その目だけが、今この瞬間の桃太郎と同じ色をしていた。この皺だらけの手が、かつて同じように震えたことがある。同じように、誰かを守ろうとしたことがある。そういう目だった。
桃太郎は唇を結んで、前を向いた。
「竜輔を、返してもらう」
声にしたら、腹が決まった。怖いのは本当だ。今もこわい。足だってかすかに震えてる。でも、それより大きいものが今は胸にある。
澄江の表情が、初めてやわらいだ。皺が深くなって、それが笑顔なのだとわかった。桃太郎がこの祖母の笑顔を見るのは、物心ついてから初めてかもしれなかった。
「行くよ」
その一言で十分だった。
その瞬間、玄関ドアを叩く音が激しくなった。ドン、ドン、ドン——もはやチャイムじゃない。拳で叩いている。木が軋む。チェーンが震える。鍵が、内側からでも揺れているのがわかる。
桃太郎は秘伝書と札を右手で握りしめた。石は澄江が木箱ごと抱えた。掌の熱が肘を伝って、肩に上がり、背中に広がっていく。光ではなかった。見えるものでも、派手なものでも、ない。ただ、確かな意志の熱だった。恐怖を越えた先にある、静かな燃焼だった。
澄江が廊下の突き当たりへ向かった。桃太郎は靴を掴んで後に続く。裏口だ。団地の裏口——この部屋に引っ越してきたとき、非常口の表示を一度確認してそれきり気にしたことのないドアが、今夜の出口になる。
澄江が扉を押し開けた。
秋の夜気が流れ込んできた。街灯の黄色い光が、コンクリートの外壁を照らしている。遠くで車が走る音がした。どこかの部屋の窓から、テレビの音が漏れてきた。外は普通の夜だった。ただ、空気の底に、何か違うものが混じっている。
「全部終わらせるんだよ、今日」
澄江の言葉は振り返りもせずに放たれた。それは孫への激励でも、脅しでもなかった。もっとシンプルな何かだった。何十年もの時間をかけて、澄江がずっと待ち続けていたことへの、静かな決着の言葉だった。
その言葉は桃太郎の背中に落ちて、そのまま燃料になった。
二人は団地の夜に飛び出した。
背後で、部屋の玄関ドアが破られる音がした。チェーンが千切れる硬い音と、複数の足音が部屋になだれ込む気配。でも桃太郎は振り返らなかった。
秘伝書を握る手に、確かな熱がある。
前だけを見て、走った。