桃太郎2世/8

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目覚める血、鬼の使者

第8章 挿絵

# 第7章「目覚める血と鬼の使者」

「開けちゃだめだよ」

澄江が静かに言った。

チャイムの音は止んでいた。でも代わりに、廊下の外から足音が聞こえてきた。ひとつ、ふたつ、みっつ——複数の足音が、廊下をゆっくりと移動している。リズムが、おかしい。人間が歩くテンポじゃない。まるでメトロノームみたいに、一定すぎる。

桃太郎は息を止めた。

澄江は動じなかった。膝の上の木箱を静かに開ける。蓋が鈍い音を立て、中が露わになった。

古びた和紙の札が数枚。それと、小さな印鑑が一本。どちらも使い込まれた跡があって、持ち手の部分は指の形に馴染んでいた。誰かが、何度も何度も握り締めてきた証拠だ。

「これが継承者の証だよ。お前の曽祖父が使ったものだ」

「……これで、鬼と戦えるの」

「道具じゃない」澄江は首を振った。「お前の中にある力を引き出すための、きっかけだよ。今、手が熱いだろ」

言われて初めて、意識が掌に向いた。

熱い。さっきからずっとそうだったのに、走り回っていたせいで気づかないでいた。火傷の熱さじゃなく、もっと内側から来る、脈打つような温もり。心臓と同じリズムで、どくどくと。

「秘伝書に書いてあった」桃太郎は掌を見つめながら言った。「恐怖を越えたとき、力が目覚めるって」

「越えてるじゃないか」

澄江はあっさり言った。

「え?」

「逃げてきたくせに、全然怖がってない顔してる。学校でも逃げたんじゃなく、考える時間が必要だっただけだろ。今だって、そこに立ってる」

桃太郎は言い返せなかった。否定するための言葉が、見当たらなかった。

そのとき、ドアが強く叩かれた。

「桃太郎。出てきなよ」

竜輔の声だった。でも竜輔じゃない。あの、複数の声が重なったような、低くくぐもった声。廊下の向こうから染み込んでくるような不気味さがあって、桃太郎の喉がきゅっと締まった。

「俺たちの主人が待ってる。お前の力、欲しいんだよ」

足音が増えた。ひとつ、ふたつ——五つ、六つ。ドアの前に集まってくる気配が、床越しに伝わってくる。団地の住民たちだ、と桃太郎には分かった。同じフロアの、いつも挨拶してくれるおじさんや、夕方に犬を散歩させているおばさんや、そういう人たちが、今は全員あの深紅の目をしてドアの前に並んでいる——そんな確信が、根拠もなく湧いてきた。

「ばあちゃん」

「分かってる」

澄江はゆっくりと立ち上がった。膝を伸ばすとき少し顔をしかめたのは、年のせいだろうか。でも立ち上がった姿勢は真っ直ぐで、その目に迷いはなかった。

「あたしも昔、同じ場所に立ったことがある」

「ばあちゃんも戦ったの」

「四十年前にね」

澄江は桃太郎の隣に並んだ。その声は淡々としていたが、どこか遠くを見ているような色があった。「あのときは一人だったけど、今回はお前がいる」

それだけ言って、澄江は玄関へ向かった。

桃太郎は思わず「待って」と言いかけた。でも言葉が出なかった。祖母の背中が——普段は小さく見えるその背中が、なぜか今だけは大きく見えた。四十年間、この秘密を抱えてひとりで生きてきた背中が、そこにあった。

鍵が一回転する。チェーンが外れる。

ドアが開いた。

廊下に、竜輔が立っていた。

学校の制服のままで、スクールバッグを肩にかけて、一見すると普通の高校生に見える。でもその目は深紅に燃えていて、口元には感情のない笑みが貼り付いている。その後ろには、住民たちが一列に並んでいた。全員が無言で、全員が同じ方向を——桃太郎を——見ていた。

「渡せ」

竜輔の口が動いた。

廊下の蛍光灯の光が、深紅の目に反射してぞっとするほど鮮やかに見えた。あの目の奥に、竜輔がまだいるんだろうか。数学のテスト前に「頼む」と泣きそうな顔をするあいつが、まだそこにいるんだろうか。

「断る」

答えたのは桃太郎だった。

澄江の後ろから、一歩、前に出た。

その瞬間、掌の熱が跳ね上がった。脈打つ感覚が腕を伝って肩に上がり、胸の奥まで一気に広がった。呼吸が変わる。深く、ゆっくり、落ち着いていくのに体の中だけ燃えているみたいな感覚。気づいたら右手が淡く光っていた。白に近い、でも白じゃない——夕暮れ前の空みたいな色の光が、掌から滲んでいる。

竜輔の体が、びくりと震えた。

一歩、後退する。その動きは初めて「人間らしく」見えた。

「やっぱりお前だ」

澄江が小さく、本当に小さく呟いた。その声はほとんど独り言で、孫に聞かせるためのものじゃなかったかもしれない。でも桃太郎の耳にはちゃんと届いた。

光が弾けた。

音もなく、爆発もなく、ただ廊下に風が走った。上着の裾が揺れて、壁に貼ってある消防訓練の紙がひらひらした。竜輔をはじめ、後ろに並んでいた住民たちが一斉に後退する。深紅の目が揺れた。瞬きをするみたいに。

そのとき——ほんの一瞬、刹那みたいな短さで——竜輔の目が黒く戻った。

「……桃太郎?」

竜輔の声だった。今度こそ、本当の竜輔の声が。困惑したような、怖いような、でも確かに桃太郎を呼ぼうとしている声が。

次の瞬間にはもう深紅に塗りつぶされていたけれど、桃太郎はしっかりと聞いた。

「竜輔を返してもらう」

まっすぐ前を向いて、そう言った。震えもなく、叫びもなく、ただまっすぐに。廊下の空気に溶け込んでいくような声だったけれど、確かな重さがあった。

澄江が隣で小さく頷いた。その表情は、桃太郎が今まで見たことがないほど柔らかかった。皺の奥に、安堵みたいな、誇らしさみたいな、四十年かけてやっと届いた何かみたいな色があった。

「行くよ、ばあちゃん。鬼の本拠地まで」

「ようやく言えたね」

ふたりは廊下を歩き出した。

深紅の目をした住民たちが左右に割れていく。桃太郎の右手はまだ淡く光っていて、それが廊下の蛍光灯よりも少しだけ温かい色で、前を照らしていた。

決戦は、もうすぐそこにある。

第8章 目覚める血、鬼の使者 — 桃太郎2世 | みんなの物語