第7章
目覚める血、鬼の使者

# 第6章「目覚める血と鬼の使者」
澄江がゆっくりと木箱の蓋を開けた。
蝶番が軋む音が静かな部屋に響く。箱の中には古びた御札が数枚と、黒い石でできた小さな印鑑が入っていた。御札の文字は薄れかけているのに、なぜか今日は鮮明に見えた。
「これが証だよ」澄江は静かに言った。「何代も受け継いできたもんだ」
桃太郎は木箱を覗き込みながら、思わず息を呑んだ。地味といえば地味な代物だ。スーパーで売ってそうな判子と、七五三のお守りみたいな紙切れ。でも、それを見た瞬間に手のひらがじわっと熱くなった。さっきから続いているあの感覚が、また脈打った。
「……ばあちゃんも、戦ってきたの」
我ながら間抜けな聞き方だと思った。でも他に言葉が出てこなかった。
澄江は膝の上で手を重ねたまま、静かに笑った。深い皺が目の端に寄る。その笑い方が、桃太郎の知らない人の顔をしていた。正月にも来ない、法事にも来ない、ぼんやりとした輪郭の祖母じゃなく、もっと古くて、もっと重いものを背負ってきた人の顔。
「当たり前だよ」
「……お前の親父が逃げたから、あたしが代わりに守ってきた」
「逃げた」という言葉が、桃太郎の胸に小石を落としたみたいに沈んだ。父親のことは聞いていない。聞いたことがなかった。聞こうとしたこともなかった。
「令和になってから、鬼が増えた」澄江は続けた。声のトーンは変わらないのに、言葉の重さが違う。「SNSで人が傷つけ合って、不安と怒りが街中に溢れてる。あいつらはそれを食って育つんだ。感情の澱み——誰かを憎む気持ち、自分を嫌いになる気持ち、先が見えない怖さ。そういうのが重なった場所に、鬼は巣食う」
桃太郎の頭の中で、竜輔のメッセージが再生された。
深夜三時。深夜四時。深夜五時。
「体が勝手に動くんだよ」
あいつはひとりで夜の街を歩きながら、何を抱えていたんだろう。桃太郎に送り続けていた。でも桃太郎は既読もつけないで寝ていた。
喉の奥がひりついた。
「竜輔は」声が掠れた。「まだ、間に合う?」
「間に合う」澄江は即答した。「だからお前が動かなきゃいけない」
そのとき、チャイムが鳴った。
部屋の空気が、ぴんと張った。
澄江の目が、さっきまでとは別の鋭さになった。「開けるな」
でもすぐに、ドア越しに声が届いた。
「桃太郎、出てきてよ」
竜輔の声だった。声帯の癖まで、ちゃんと竜輔だった。
「お前に会いたいんだ」
胸が締め付けられた。膝の上に置いた拳が、ぎゅっと固まる。出てきてよ、なんて竜輔が言いそうな言葉だ。でもその言葉を今、竜輔が言っているんじゃない。竜輔を乗っ取った何かが言っている。
桃太郎は動かなかった。
動けなかったんじゃない。動かなかった。
「……わかってる。あいつじゃない」
「わかってるんなら、いい」澄江はそれだけ言って、木箱から黒い印鑑を取り出した。
廊下の外で、足音が増え始めた。一つ、二つ、三つ——隣の部屋、その向こうの部屋、階段の方向から。バラバラなのに同じリズム。人間の歩き方じゃない、あの機械みたいな動き。団地中が、じわじわと包囲されていく感覚。
背中がざわついた。七階建ての団地。何十室もある。あの深紅の目が、全部の部屋に広がっているかもしれない。
「桃太郎」
澄江が印鑑を差し出した。桃太郎は反射的に右手を開いて受け取った。
冷たかった。最初の一瞬だけ。次の瞬間には、石の冷たさが溶けるみたいに消えて、代わりに熱が来た。掌の中から光が滲み始める。指の隙間から白く、薄く、でも確実に。
さっき感じた脈打つ感覚が、今度は全身に広がっていく。心臓じゃなく、もっと全部——血の一本一本が、目を覚ましていくみたいな感覚。
「やっぱりお前だ」澄江が短く呟いた。「今まで一番強い」
桃太郎は澄江の顔を見た。澄江は笑っていた。さっきとは違う笑い方で。疲れと、誇りと、少しの安堵が混ざったような、そういう笑い方。
何代も続いてきたんだ、と唐突に実感した。壁の家系図に連なる名前たち。この家に生まれて、鬼のことを知って、戦い続けた人たち。自分はその一番下にいる。その一番下が、こんな普通の団地の一室で、制服のまま膝を震わせている。
でも光は止まらなかった。
「竜輔を返してもらう」
声に出してみると、思いのほか静かだった。震えていなかった。昼間に家で呟いたときと同じ声が、今度はもっとはっきりと部屋の空気を震わせた。
澄江が初めて、正面から桃太郎の顔を見た。孫を見る目じゃなく、継承者を確かめる目で。
「行くよ」澄江はゆっくりと立ち上がった。膝が痛そうな所作なのに、背筋だけはまっすぐだった。「あたしも一緒に行く」
チェーンロックを外し、鍵を回す。
玄関のドアを引いた瞬間、廊下の空気が歪んだ。
冷たい秋の外気のはずなのに、熱い。歪んで見える。廊下の蛍光灯が、ちかちかと点滅している。
そして——竜輔の姿をした何かが、そこにいた。
深紅の目。薄く上がった口の端。体の重心が、人間とは少しだけずれた場所にある。
でも桃太郎は一歩、踏み出した。
印鑑を握った右手から光が溢れて、廊下を白く照らした。深紅の目が、わずかに揺れた。
「返してもらうぞ」
声は静かなままだった。でも今度は、血の奥から来ていた。