第6章
第六章「目覚める血と鬼の使者」

澄江は、まったく動じなかった。
湯呑みをゆっくりと卓上に戻して、ただ桃太郎を見ている。その目は、嵐の前の海みたいに静かだった。皺の深い顔には焦りのかけらもなくて、それがかえって、桃太郎の背中を冷やした。
「開けちゃだめだよ」
「誰なの」
「鬼の使いだね」澄江は少し間を置いた。「お前がここに戻ったのを、もう知ってる」
桃太郎は玄関ドアを見た。表面は変わらない、くたびれたベージュの鉄扉。でもドアの向こうに、何かがいる。形のない圧力みたいなものが、隙間から滲み出てくるような気がした。
手のひらの熱が、また強くなった。
さっきまでは心臓の近くでじわじわしているだけだったのが、今は肘まで上がってきている。脈打つような、内側から押し広げられるような感覚。痛くはない。でも、確実に何かが動いている。自分の体の中で、自分の知らない何かが。
「桃太郎」
澄江の声で、視線が引き戻された。
祖母は膝の上に置いていた木箱の蓋を、ゆっくりと開けた。蓋に焼き付けられた家紋が、西陽の中でくっきりと浮かび上がる。
「あたしはね、お前のおばあちゃんである前に、この家の番人なんだよ」
番人。その言葉が、桃太郎の胸に落ちた。
正月にも来ない。法事にも来ない。滅多に顔を出さない祖母だと思っていた。遠い人だと思っていた。でも今、目の前にいるこの老女の眼差しには、ぼんやりとした輪郭なんてどこにもなかった。ずっとここを見ていた人の目だと、なぜかわかった。
箱の中には、古びた布に包まれた何かと、小さな勾玉がふたつ、並んで収まっていた。
澄江の指が布の端を摘んで、ゆっくりと解いていく。枯れ葉のようにかさかさと音を立てながら布が開くと、手のひらサイズの木札が現れた。表面はなめらかに磨かれていて、中央に一文字だけ彫られている。
「桃」。
シンプルで、でも迷いのない、力強い一文字だった。
「代々の継承者が持つ護符だよ。鬼を制する気を、これが引き出してくれる」
澄江は勾玉のひとつを取り上げ、桃太郎の手に押し込んだ。
冷たいはずなのに、触れた瞬間に熱が来た。手のひらに直接、炭火をそっと当てられたような温かさ。でも火傷じゃない。むしろ、逆だった。ざわざわと波立っていた胸の奥が、すとんと静かになった。体の軸みたいなものが、ふっと定まる感じ。
「なんで今まで黙ってたの」
自分でも思っていたより、責めた声になった。でも澄江は動じない。
「準備ができてない子に渡しても、力は使えないから」
それだけだった。言い訳でも謝罪でもなく、ただ事実として、静かに。
桃太郎はそれ以上何も言えなかった。
そのとき、ドアの向こうで音がした。
ガリ、と。
爪が立てるような音。一回、長く、引っかく音。それからもう一回。低くて、粘りつくような音が、廊下を這って部屋まで届いてくる。桃太郎の首筋の毛が逆立った。
澄江は動かない。湯呑みの縁に指を添えたまま、瞼をわずかに伏せている。まるで耳を澄ませているようでも、すでに全部知っているようでもあった。
でも桃太郎は、立ち上がっていた。
怖い。それは変わらない。足の先がかすかに震えているのも、息が少し浅くなっているのも、自分でわかる。でも頭の中に、竜輔の顔が浮かんでいた。
深紅の目じゃなくて。
テスト前になると必ず「桃太郎、頼む」と泣きそうな顔で寄ってくる、あいつの顔。「全然痛くない」と強がりながら松葉杖が手放せなかった、あいつの顔。
あの顔を、取り返したい。
「鬼の本体はどこにいる」
自分の声が、自分に似合わないくらい落ち着いていて、桃太郎は少し驚いた。澄江の目が細くなった。今度の細め方は、読めなかった表情とは違う。何か、驚きに近いものが混じっていた。
「この街の、地下だよ。廃線になった駅舎跡。負の感情が溜まりやすい場所に巣を作るんだ。人の怨念や後悔や、行き場のない感情が積み重なった場所を好む」
「一人で行ける?」
「行けるかどうかじゃなくて」澄江はゆっくり顔を上げた。「行くかどうかだろ」
ぐさっときた。その通りすぎて、苦笑いしか出てこなかった。
桃太郎は勾玉を握りしめた。手のひらの中で、熱がもう一段、強くなる。
「行く」
たった二文字。でもその言葉を口にした瞬間、熱が腕全体に広がった。手首を越えて、肘を越えて、肩まで一気に満ちていく。川が本流に注ぐみたいに、自然で、止められない流れだった。血が燃えているみたいだ、と桃太郎は思った。痛みじゃない。自分がずっと持っていたのに、今まで気づかなかった何かが、覚醒していく感覚。
何千年もの意思が、自分の体の中を通っていく。
家系図に並ぶ、あの「桃太郎」という名前たちが、ぜんぶ自分と繋がっているみたいだった。
澄江は静かに頷いた。
皺の中の目が、柔らかくなった。怖いくらい静かだった老女の顔に、初めて祖母らしいものが滲んだ気がした。
「あたしも昔、同じ場所に立ったよ」澄江はそっと言った。「だから知ってる。お前には、ちゃんと力がある」
同じ場所。桃太郎はそれ以上聞かなかった。聞かなくても、伝わった。
ドアの引っ掻き音が、ぴたりと止んだ。
静寂が来た。
音のない廊下。チャイムも鳴らない。引っかく音もしない。何も聞こえない。
それが余計に怖かった。悲鳴を上げるモノより、黙るモノのほうが怖いと、桃太郎は直感で理解した。扉の向こうに何かいる確信は変わらないのに、息を潜めている気配だけが残っている。
でも桃太郎は振り返らなかった。
玄関に歩いていき、棚の上に投げ出してあった靴を拾い上げた。ヘタれたスニーカーに足を押し込んで、紐をきつく結ぶ。手が震えていないことに、自分でちょっと驚いた。
護符の木札を上着のポケットに、勾玉を握りしめたまま拳にする。
壁の墨書が、視界の端に入った。
――鬼退治の家筋を継ぐべし。
七歳から毎日見てきた言葉。笑い飛ばしてきた言葉。ずっと見えていなかった言葉が、今は、まるで背中を押すみたいにそこにあった。
「行ってくる」
澄江は何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。それで十分だった。
桃太郎はドアノブに手をかけた。チェーンを外す。鍵を回す。
決戦は、もう始まっていた。