桃太郎2世/4

4

逃げろ、と血が叫ぶ

第4章 挿絵

学校の非常階段を三段飛ばしで駆け降り、桃太郎は裏門から外へ飛び出した。

秋口の風が頬を刺す。息が白く乱れる。でも足は止められなかった。

スクールバッグが肩に食い込む。背中に汗がじわっと滲む。それでも桃太郎は走り続けた。住宅街の細い路地に入り込み、自転車が一台しか通れないような道を選んで、ひたすら家を目指した。

背後に足音はない。

ない、はずなのに。

あの深紅の目が——竜輔の目が、クラスメイトたちの目が——追いかけてくる気がして、桃太郎は一度も後ろを振り返れなかった。振り返ったら何かが変わってしまいそうで。振り返ったら、あの目と目が合ってしまいそうで。

二十分後、桃太郎はようやく団地の前に立っていた。

エレベーターを待つ余裕もなく、非常階段を駆け上がる。自分のフロアに辿り着くと、ポケットの鍵を取り出す手が震えていた。鍵穴に何度も当て損ねて、やっとの思いでドアを開けた。玄関に飛び込み、鍵を二回回す。チェーンロックもかける。

それからやっと、その場にへたり込んだ。

「はあ……っ、はあ……」

冷たいフローリングの感触が、掌に伝わってくる。膝に手をつき、肩で息をしながら、桃太郎はゆっくりと顔を上げた。

視線の先に、いつもの壁がある。

古びた家系図——何代にもわたる名前が細い筆文字で連なっている、黄ばんだあの紙。そのとなりに、達筆な墨書。

――鬼退治の家筋を継ぐべし。

七歳のころから毎日見てきた言葉だ。食卓からも見えるし、ソファに寝転んでいても目に入る。だから逆に、ずっと見えていなかった。

なのに今は、違った。

文字が、呼吸しているみたいにそこにあった。

「……なんで、こんなにリアルに見えるんだよ」

声に出してみると、自分がどれだけ動揺しているかがわかった。桃太郎はゆっくりと立ち上がり、壁に近づいた。家系図に目を走らせる。一番上の名前——「桃太郎」。それから何代もの名前を経て、一番下に自分の名前がある。同じ名前が連なっているのが、今日ほど重く感じられたことはなかった。

そのとき、視線が引っかかった。

家系図の横、壁と額縁のあいだに、折り畳まれた古い紙が挟まっている。

今まで、一度も気にしたことがなかった。壁の染みぐらいの存在感しかなかったはずなのに、なぜか今日は目に飛び込んでくる。桃太郎は指先でそっと引き出した。かさかさと乾いた音がした。

広げると、細かい筆文字がびっしりと並んでいた。インクは薄れかけているが、読めないほどではない。

「秘伝……?」

声が掠れた。

読み進めるうちに、桃太郎の手が震え始めた。

鬼の特徴が書いてある。人の目を深紅に染め、意思を乗っ取り、群れとして動く——まるで今日の光景そのままだ。弱点が書いてある。継承者の持つ「気」に反応し、意思の強さによって退けることができる——。そして最後のページ、一際力強い筆跡で書かれた一文。

「継承者の身体には、生まれながらに鬼を制する力が眠る。恐怖を越えたとき、その力は目覚める」

まるで、誰かが桃太郎のためだけに残したみたいだった。今日この日のために書かれたみたいだった。全部そこにあった。答えが、ぜんぶ。

桃太郎はしばらく動けなかった。窓の外では近所の子どもが遊ぶ声がして、遠くをバイクが走り抜ける音がした。普通の昼間の音。でも桃太郎の頭の中は、全然普通じゃなかった。

竜輔のことが頭に浮かぶ。

出会いは中学一年のとき、クラス替えで隣になったのがきっかけだった。数学が壊滅的に苦手で、テスト前になると必ず泣きそうな顔で「桃太郎、頼む」と言ってくる、あいつ。去年の体育祭で足を捻挫して、「全然痛くない」と見栄を張りながらも松葉杖が手放せなかった、あいつ。深紅に染まった目で桃太郎を見つめた、あいつ。

あれは竜輔じゃない。

竜輔を乗っ取った何かだ。

そのとき、スマートフォンが震えた。

テーブルの上に置いたままの画面が光る。通知のバイブが二回、三回と続く。桃太郎は秘伝書を握りしめたまま、ゆっくりと近づいた。画面に映る名前を見た瞬間、喉がきゅっと締まった。

「竜輔」

表示名は竜輔のままだ。アイコンも、いつも竜輔が使っている夕焼けの写真のままだ。でもメッセージを開いた瞬間、背筋に冷水を流し込まれたような感覚が走った。

「桃太郎。逃げても無駄だよ」

「俺たちはお前が欲しいんだ」

「お前の力が、俺たちには必要なんだよ」

三行。それだけ。

「俺たち」という言葉が、頭の中でじわじわと広がっていく。竜輔だけじゃない。クラスメイトだけじゃない。もっと大きな何かが、桃太郎を欲しがっている。

しかも、「力」を知っている。

さっきまで読んでいた秘伝書の言葉と、メッセージが頭の中で繋がった。継承者の力——あの鬼たちは、それを知っている。桃太郎自身が知るより先に、向こうが知っていた。

画面を見つめたまま、桃太郎は気づいたら唇を噛んでいた。

怖くないといったら嘘になる。めちゃくちゃ怖い。足だってまだかすかに震えてる。でも、それと同時に別の感情が胸の奥でじわじわと燃え始めていた。

竜輔のことが、頭から離れない。

「俺たちはお前が欲しい」なんて、知らねえよ。

こっちには返してもらいたいやつがいるんだ。

「……竜輔を返してもらう」

呟いた声は、自分でも驚くほど静かだった。震えもなく、叫びもなく、ただまっすぐに、部屋の空気に溶け込んでいった。

窓から西陽が差し込んで、壁の墨書を赤く照らしている。

――鬼退治の家筋を継ぐべし。

桃太郎は秘伝書をテーブルに広げ直し、もう一度最初から読み始めた。

第4章 逃げろ、と血が叫ぶ — 桃太郎2世 | みんなの物語