第13章
「桜の下の希望」

# 第12章 桜の木の下で
公園の入り口には、大きな桜の木が立ってた。
葉っぱが風に揺れるたびに、雨上がりの水滴がぱらぱらって落ちてくる。その一粒一粒が朝の光を受けてきらきら光って、まるでだれかが宝石をばら撒いてるみたいだった。クロのいた路地裏とは全然違う空気が漂ってる。土の匂い、草の匂い、濡れた木の匂い。鼻いっぱいに吸い込むと、なんだか胸の奥まで洗われるみたいな気がした。
その木の根元に、確かにいた。
オレンジ色の猫が。
「お母さん!」
わたしは全力で駆け出してた。肉球が土を蹴るたびに、ぱしゃぱしゃって小さな水たまりが弾ける。心臓がばくばくで、頭の中が真っ白で、ただもうあのオレンジ色に向かって、一直線に。
でも、三歩手前で、足が止まった。
違う。
毛並みの色が、違う。記憶の中のお母さんはもっと濃いオレンジで、耳の後ろのところに小さな白い点があって、しっぽの先がほんの少しだけ右に曲がってる。ずっとずっと、そのしっぽを見ながら後をついて歩いてたから、わたしは絶対に間違えない。でも目の前の猫は、ぜんぶ違った。明るくて均一なオレンジで、しっぽはまっすぐで、白い点なんてどこにもない。
「…あ」
声が、ふにゃってなった。
全身の力が一気に抜けて、わたしはその場にへたり込みそうになった。走りながら広がっていた景色が、急に色を失ったみたいだった。桜の水滴のきらきらも、土の匂いも、全部がさっきより遠い。
「なんだ、子猫か」
オレンジの猫は迷惑そうにわたしを見た。丸々と太って、桜の根元に堂々と座ってる。年季の入った風格がある、おじさん猫って感じだ。
「あ……ごめんなさい。お母さんを探してて」
「お母さん?」
鼻がひくひく動いた。興味があるのか、ないのか、よくわかんない顔だ。
「オレンジ色の猫で、片方の耳の後ろに白い点がある猫なんだけど」
おじさん猫はゆっくりと目を細めた。それからしばらく、何かを思い出すみたいに黙ってた。木の葉がまた揺れて、水滴がおじさん猫の背中に落ちた。けど、おじさん猫は微動だにしない。
「川の方で見たな」
その一言で、しぼみかけてた心臓が、もう一度どきんと跳ねた。
「あの大雨の後、流されてきた猫たちが川沿いの堤防に何匹か集まってたって話を聞いた。耳の後ろに白い点の猫も……いたかもしれん」
「いたかもしれん」ってのが、ちょっと曖昧で、胸がきゅっとなった。確実じゃない。でも、ゼロじゃない。確実じゃないけど、ゼロでもない。わたしはその言葉を、心の真ん中にそっと置いた。
「川沿いって、どっちの方向?」
「公園を出て、ずっと東に歩いて行けば川がある。堤防は川に沿って続いてる。ただし」
おじさん猫の声が少し低くなった。
「あの辺りは犬の散歩コースだ。朝と夕方は特に気をつけろ。堤防の下の草むらに逃げ込めば、まあなんとかなる」
「ありがとう!」
わたしは頭を下げて、走り出そうとした。
その瞬間だった。
「あ、また会えた!三毛猫ちゃん!」
聞き覚えのある声に、思わず足が止まった。振り返ると、ランドセルを背負った女の子が立ってた。昨日パンをくれた子だ。白いソックスが少し泥で汚れてて、前髪が風でふわって持ち上がってる。
「どこか行くの?」
女の子はしゃがんで、わたしに向かって手を差し伸べた。
昨日、クロに「知らない人間に近づくな」って言われたのを思い出した。でも、一拍置いて、わたしの足はすでに動いてた。気づいたら、その手にそっと鼻を近づけてた。
温かい。ふわっと石けんの匂いがした。ゴミ箱の周りで嗅いだどんな匂いとも違う、きれいで、あったかい匂い。
女の子の手のひらはわたしの顔より全然大きくて、でも押しつけてくるわけじゃなくて、ただそっと待ってくれてた。わたしがどうするかを、静かに待ってた。
「がんばってね」
女の子はそう言って、頭をそっと撫でた。
たったそれだけなのに、なんかじんとした。お母さんに毛並みを舐めてもらうときの感覚と、どこか似てた。違う温かさなんだけど、安心感が同じだ。
「ありがとう」
わたしはにゃあって一声鳴いた。ちゃんと伝わったかはわかんないけど、女の子はにっこりと笑った。
わたしは走り始めた。公園の出口に向かって、東に向かって。
川沿いの堤防。そこにお母さんがいる。いたかもしれない、じゃなくて、いる。そう思うことにした。根拠なんてないけど、信じるって決めた。クロが「泣いてたって何もならん」って言ったのと、たぶん同じことだ。立ち止まってたって、お母さんは戻ってこない。自分の足で、自分で歩くしかない。
走りながら、胸の中にいろんなものが積み重なってる気がした。
クロが教えてくれたこと。茶トラが教えてくれた方向。おじさん猫が教えてくれた情報。女の子がくれた温かいパンと、温かい手のひらと、「がんばってね」の一言。
みんな、バラバラで、偶然で、ちょっとずつ違う方向からやってきた。でもぜんぶ、わたしをお母さんのいる方へ押し出してくれてる気がする。
「絶対に生きてる」
走りながら、小さく呟いた。
お母さんは生きてる。川沿いの堤防のどこかで、わたしのことを探してる。そう信じる根拠が、今日ちょっとだけ増えた。それだけで、肉球に力が入った。
川の匂いが、風に乗ってきた気がした。まだ遠い、かすかな匂い。でもわたしの鼻は、確かにそれをとらえた。
もうちょっとだ。絶対に。