第11章
「灰色の友と別れまで」

「お前、もう大丈夫だ」
クロがそう言ったのは、三日目の朝だった。
段ボール箱から顔を出すと、久しぶりに空が青かった。雨上がりの匂いじゃなくて、ちゃんとした朝の匂いがした。乾いたコンクリートと、遠くのどこかで誰かが作ってる朝ごはんの匂いが、風に乗って鼻をくすぐった。
「え?」
わたしは思わず聞き返した。クロは段ボール箱の端に座って、黄色い目でわたしをじっと見つめてた。いつもは鋭くてちょっと怖い目なのに、その朝だけは、なんか違って見えた。柔らかい、って言うのかな。朝の光のせいかもしれないけど。
「自分で食い物を探せた。危険から逃げられた。それで十分だ。あとは自分で歩け」
三日間。クロはわたしにいろんなことを教えてくれた。ゴミ箱の蓋の開け方、腐った匂いと食べられる匂いの違い、車が来る前に漂う空気の変化。それから、昨日のこと。
昨日、わたしたちが食べ物を探してたら、急に低い唸り声がした。振り向くと、薄汚れた茶色の野良犬が、歯を剥いてこっちを見てた。体はわたしの三倍はある。足がすくんで、声も出なかった。
その瞬間、クロの声が頭に飛び込んできた。
*細い路地を選べ。大きい犬は入ってこられない。*
わたしは一瞬だけ息を吸って、横の路地に全力で飛び込んだ。肉球が地面を蹴って、壁と壁のぎりぎりの隙間を抜けて、背後で野良犬が吠える声がどんどん遠ざかった。角を三回曲がって、また細い路地に入って、十分すぎるくらい走ってから、ようやく止まった。
心臓がばくばくで、息が切れて、足がぷるぷるしてた。
でも、逃げられた。自分の力で。
クロが後から追いついてきて、わたしの顔を見て、黄色い目をほんの少しだけ細めた。褒められてるのか呆れられてるのか、正直わかんなかったけど、あの目は今でも忘れられない。
「でも…」
わたしは言葉を詰まらせた。正直、まだ怖い。一人で歩けって言われても、この三日間、クロがいたから動けてたんだ。ゴミ箱の開け方も、危ないところも、どこへ行けばいいかも、全部クロが隣にいたから分かった。一人になったら、また迷子になるんじゃないか。そう思ったら、喉の奥がぎゅってなった。
「親猫を探すんだろ。ここでうずくまってたって、見つかるわけがない」
クロはそっぽを向いた。照れてるのか、それとも元々そういう性格なのか、よくわからない。でも、その言葉は正しかった。お母さんはここにはいない。この先のどこかにいる。
「ありがとう、クロ」
わたしはそう言って、段ボール箱に向かって頭を下げた。深々と。クロは何も言わなかった。でも、折れた耳がぴくって動いた。それが返事なんだと思った。
段ボール箱を後にして、わたしは初めて一人で路地裏を歩いた。
最初の角で、少しだけ振り返った。クロはもうこっちを見てなかった。段ボール箱の入り口でうずくまって、目を閉じてた。それがまた、なんかクロらしかった。
よし。行こう。
新しい地区は、クロのいた場所より少し賑やかだった。人間がたくさん歩いてて、自転車が何台も通り過ぎる。でも、クロに教わったとおり壁沿いを歩いて、車が来たら立ち止まって、知らない人間に近づかないようにしたら、ちゃんと進めた。足元は少しふらつくけど、ちゃんと前に進んでる。
そのとき、声をかけてきたのは痩せた茶トラの猫だった。
わたしより少し小さくて、目がくるくるとまん丸で、尻尾の先だけが白かった。塀の上に座って、わたしの方をじっと見てた。
「新参者?」
茶トラが言った。クロに「テリトリーに入ったら声をかけてくる猫がいる。まず落ち着いて話せ」って教わってたから、わたしは立ち止まって、できるだけ堂々とした声で言った。
「通りすがり。オレンジ色の猫を探してて」
茶トラはちょっと考えてから、首をかしげた。まん丸い目がくるくる動く。
「オレンジ色…あ、もしかして。あっちの公園の近くで、オレンジの猫が探し回ってるって聞いたけど」
心臓がどきんと跳ねた。耳の奥まで音が響いた気がした。
「本当に!?」
思わず大きい声が出た。茶トラが驚いて尻尾を立てた。
「わ、急にでかい声出すなよ」
「ごめん!でも本当に!?オレンジ色の猫、どっち?」
「あっちの方角の公園。大きな桜の木があるところ。でも、わたしが聞いたのは昨日の話だから、まだそこにいるかはわかんないけど」
茶トラの言葉が終わる前に、わたしは走り出してた。公園の方角って教えてもらった方向に向かって、一直線に。お母さんかもしれない。オレンジ色で、誰かを探し回ってる猫。それ以外に誰がいる。
でも途中で、ふと足が止まった。
公園に続く道の途中、植え込みの前に女の子がしゃがんでいた。人間だ。小学生くらいかな。ランドセルを背負ってて、手に白いパンを持ってる。そしてそのまん丸い目が、真っすぐわたしを見てた。
「あ、三毛猫だ」
その子は小さな声でそう言って、にっこり笑った。「お腹空いてる?」
わたしはぴたっと止まった。知らない人間には近づくな、ってクロが言ってた。でも、この子の声はどこかあったかくて、クロの声よりもずっとやわらかかった。怖い感じが、全然しない。
差し出されたパンの欠片を、わたしはおそるおそる、でも確かめるみたいに嗅いでみた。ふわっていい匂い。腐った匂いじゃない、ちゃんとしたふわふわのパンの匂い。
わたしはそっとかじった。
温かくて、ふわふわで、甘い。クロと食べたゴミ箱の食べ物とは、全然違う味がした。目の奥がじんってした。なんでだろう。ただのパンなのに。
「かわいい子。どこから来たの?」
女の子はそっとわたしの背中を撫でた。人間に触られるのって、こんなに温かいんだ。知らなかった。親猫に舐めてもらうのとは違う温かさで、でも、なんか同じような安心感があった。
「お母さんは絶対生きてる」
わたしは小さく呟いた。
茶トラが教えてくれた情報も、見知らぬ女の子がくれた温かいパンも、全部がなんか繋がってる気がした。お母さんのいる方向に引き寄せてもらってるみたいな、不思議な感じ。
公園はもうすぐそこだ。桜の木があるって言ってた。
よし。もっと先へ行こう。わたしはもう一度、走り始めた。