三毛猫メルの冒険/10

10

第10章 クロの認定と新しい一歩

第10章 挿絵

「お前、なかなかやるじゃんか」

クロがそう言ったのは、わたしが三度目のゴミ箱を攻略した日の夕方だった。

西の空が鈍いオレンジ色に染まって、路地裏の濡れたコンクリートがその色を反射してた。雨上がりの街は、まだどこかじめじめしてて、古い油と泥の混ざった匂いがあちこちに漂ってた。でもわたしの鼻は、もうそんな匂いを「くさい」って思わなくなってた。何日か前までは、顔をしかめてたはずなのに。

「ほんとですか!」

思わずしっぽをぴんと立てた。背筋がすっと伸びて、ぼさぼさの毛並みがちょっとだけ誇らしく感じた。三度目のゴミ箱。蓋の開け方もばっちり、食べられるものの見分け方も完璧だ。クロの真似をしながら覚えた、あの匂いの嗅ぎ分け方も、だいぶ板についてきた気がした。

クロは「ふん」って鼻を鳴らした。でも、横から見ると口の端がほんのちょっとだけ上がってた。あれは笑ってるんだ、って、最近わかるようになった。クロは滅多に笑わない。だから、そのわずかな口元の動きが、大げさな褒め言葉より何百倍も嬉しかった。

あの雨の夜に濁流に飲み込まれて、見知らぬ場所に流れ着いて、震えながら泣いてたわたしと、今のわたし。同じ猫とは思えない。毛並みはまだぼさぼさだし、肉球は硬くなってきたけど、心の中に何か、ぎゅっと詰まったものができた気がした。自分でもうまく説明できないけど、「ここで生きていける」って感覚、とでも言えばいいのかな。

でも、喜んでたのもつかの間だった。

その夜、ゴミ箱の裏手から大きな影がぬっと現れた。

最初は音だった。コンクリートを引っ掻くような、ざりざりって音。つぎに、息の音。荒くて、低い。そしてわたしの鼻が、知らない動物の匂いを感じ取った瞬間——影が現れた。

犬だ。

しかも、でかい。背丈はわたしの倍以上あって、薄茶色の毛並みに泥が跳ね散ってる。目がぎらぎら光ってた。肉食の動物特有の、じっとりとした黄色い光。それがわたしをまっすぐ見てた。

ごくり、と喉が鳴った。足が地面に張り付いたみたいに、一瞬動けなくなった。

「逃げろ、メル!」

クロの声が、わたしの背中を叩いた。

その声で、固まってた足が動いた。弾けるみたいに走り出した。細い路地へ。もっと細い路地へ。「細い場所に大きい犬は入ってこられない」——クロの言葉が頭の中でフラッシュした。建物と建物の隙間、人間がやっと一人通れるかどうかの隙間、わたしはそこへ全力で飛び込んだ。

背後で、犬の爪がコンクリートを削る音がした。ざりざり、ざりざり。そして、低い唸り声。でも、どんどん遠ざかっていく。隙間が狭すぎて、犬の身体が入ってこられないんだ。

わたしは走り続けた。角を曲がって、また角を曲がって。肺が痛くなるくらい走って、ようやく足を止めた。

息を整えながら周りを見ると、クロが隣で静かに呼吸してた。片耳の折れた横顔が、夕暮れの最後の光の中に浮かんでる。

「自分で逃げ切れたな」

それだけ言った。淡々とした、クロらしい言い方だった。褒めてるのか確認してるのかもよくわからないような、そっけない言葉だった。

でも、その一言がすごく嬉しかった。自分で判断して、自分の足で逃げた。クロに助けてもらったんじゃなくて、自分でやれた。たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわり温かくなった。

「クロ」

夜、段ボール箱の中で、わたしは打ち明けた。

新聞紙がかさかさ鳴る音がした。クロはいつもみたいに、丸くなって横になってた。でもわたしの声で、黄色い目をゆっくり開けた。外はもう暗くて、遠くの街灯の光が段ボール箱の入口からわずかに差し込んでた。

「そろそろ、お母さんを探しに行きたい」

声が、思ってたより小さくなった。言葉にしたら、胸のどこかがきゅっとなった。お母さんのオレンジ色の背中。路地裏のぬくぬくした段ボール箱。朝ごはんをぱくぱく食べた、あの記憶。クロと一緒に過ごした日々は、本当にいろんなことを教えてくれた。でもわたしの帰る場所は、ここじゃない。

クロは黄色い目をすっと細めた。何秒か、何も言わなかった。段ボール箱の外で、遠くから車の音が聞こえてた。

「だと思ってた」

ぽつり、と言った。

「お前、もう一人でやれる」

その声は、いつもと同じぶっきらぼうな口調だった。でも何か、違う色が混ざってた気がした。寂しい、とか、そういう言葉を絶対に使わないクロが、別の何かをその言葉に乗せてた。わたしはうまく受け取れなくて、ただ頷いた。

そして翌朝、クロはわたしを連れて、今まで行ったことのない地区へ向かった。

どんよりした空だったけど、雨は降ってなかった。空気が冷たくて、肉球の下のコンクリートはひんやりしてた。でも、体の内側から何か熱いものがわき上がってきてて、寒さはそんなに気にならなかった。

だんだん、匂いが変わった。食べ物の温かい匂い。人間の声。商店街の近くだ。

「オレンジ色の猫を見たのは、このあたりだって聞いたことがある」

クロは静かに言った。

その瞬間、わたしの心臓が跳ね上がった。お母さん。本当に、本当にいるの?ここに?足がどんどん速くなって、鼻がひくひく動いた。いつもの匂い、あの親しみのある温かい匂いはするかな。でも商店街の食べ物の香りや、人間の匂いがごちゃまぜになってて、うまく嗅ぎ分けられない。

わたしたちは通りの入口に立ち止まった。

商店街は朝の支度の真っ最中だった。お店のシャッターが上がる音、水を撒くおじさん、自転車で通り過ぎる人。人間たちはみんな自分のことで忙しそうで、端っこにいる猫二匹のことなんか気づいてもいなかった。

その通りの端っこ、花屋の前に木のベンチがあった。

そこに、女の子が座ってた。

ランドセルを背負って、膝の上に両手を置いてた。花屋の軒先に飾られた花たちが、女の子の周りを柔らかく彩ってた。ピンクとか、黄色とか、橙色とか、雨上がりの光の中でしっとり輝いてた。

女の子はまっすぐ、わたしを見てた。

子供の目、って、大人の目と違う。そんなこと今まで考えたことなかったけど、その子の目を見た瞬間に、なぜかそう思った。大きくて丸くて、なんの色もついてない。純粋に、ただわたしのことを見てる目だった。驚きと、それから、なんだろう——興味?いや、もっと温かい何か。

お母さんの目に、似てた。

わたしがはぐれてしまった、あの雨の日の朝。「メル」って名前を呼ぶお母さんの目。いつでもわたしのことを見てくれてた、あの優しい目。なぜかあの子の目が、その記憶に重なった。

わたしは気がついたら、足を止めてた。

「あの子……」

口から言葉が漏れてた。

「行くか?」

クロが聞いた。静かな声だった。判断を押し付けない、クロらしい聞き方だ。

わたしはちょっとだけ迷った。女の子はまだこっちを見てた。視線が交差してる。でも——まだだ。今日じゃない。まだお母さんを探してない。まだやることがある。

「ううん、今日はまだ」

わたしは首を振った。

でも視線は、その女の子から離れなかった。ランドセルが陽の光を反射してた。花屋の前の花たちが、風に揺れてた。女の子はまだ、こっちを見てた。

何かが、始まりそうな予感がした。

それがなんなのか、その時のわたしにはまだわかってなかった。でも肉球の先から耳の先まで、何かがじわじわとしみてくるような感じがした。それは怖い感じじゃなかった。むしろ、ずっと昔からそこにあったものに気づいたような——そんな感じだった。

「行こう」

クロが言って、わたしは頷いた。でも商店街を離れながらも、何度も振り返った。花屋の前のベンチ。木のランドセル。あの丸い、温かい目。

きっとまた、会う気がした。