第6章
煽り運転野郎、吹き飛ぶ

# 第5章「煽り運転野郎、吹き飛ぶ」
王都の南門通りは、昼時になると荷馬車と人が混じり合い、絶えず雑然としている。香辛料の露店が甘い煙を漂わせ、魚売りの声が石畳に反響し、子どもたちが荷物の隙間を縫って走り回る。そういった騒がしさは、ハルタロウにとってむしろ心地よいものだった。雑多な生の気配というのは、静かすぎる場所よりずっと落ち着く。
ハルタロウがそこを通りかかったのは、まったくの偶然だった。
ギルドで受けた護衛依頼の帰りだった。依頼主の商人を無事に東地区まで送り届け、あとは宿に戻るだけだ。懐には依頼料の銅貨が入っており、今日こそ屋台でパンを一個買おうと思っていた。昨日も、一昨日も、何かに気を取られて買い忘れていた。単純なことほど、うっかり忘れてしまうものらしい。
そう思いながら歩いていたとき、異変が耳に届いた。
馬の蹄鉄が、石畳を叩く音だった。
普通の蹄鉄の音ではない。速すぎる。リズムが荒い。石畳に食い込むような、乱暴な刻み方だった。ハルタロウが視線を向けるより先に、通りの人間たちが一斉に声を上げて脇へ飛びのいた。
黒塗りの立派な馬車が、通りを猛然と疾走していた。
馬の目は白目を剥き、泡を飛ばしながら走っている。馬自身も、尋常でない状況に追い立てられているのだとわかった。周囲の悲鳴が飛び交う中、逃げ遅れた老婆がよろめいて石畳に膝をついた。小さな子どもが荷物ごと路肩へ弾き飛ばされ、母親が叫び声を上げながら駆け寄る。それでも馬車は速度を落とさない。落とそうとする意志が、御者台に存在していなかった。
御者台の男が怒鳴り声を上げた。
「ぐずぐずすんな!どけどけ!俺様の馬車が見えんのか!」
脂ぎった顔が、興奮で真っ赤に染まっていた。肉付きのよい首に青筋が浮き、目が充血している。年は四十を過ぎた頃合いだろうか。上等そうな上着を着ているが、それが却って滑稽に見えた。手綱を振り回すたびに、馬が悲鳴に近いいななきを上げる。
その馬車の鼻先が、前方を走る小さな荷馬車をほとんど追い詰めていた。
荷馬車の御者は、白髪の老人だった。腰が曲がり、手綱を握る指がひどく細い。怯えた様子で何度も後ろをふり返りながら、必死に馬をなだめ、どうにか端へ寄ろうとしていた。しかし石畳の幅は狭く、両側には露店が並んでいる。逃げ場がない。老人の荷馬車は、じりじりと追い詰められるばかりだった。
男はさらに怒鳴った。「さっさとどかんか、このドジじじい!荷物ごとひっくり返されたいか!」
老人の肩が、びくりと跳ね上がった。その震えが、遠くからでもはっきりと見えた。
ハルタロウの足が止まった。
静かに、胸の奥が冷えていった。怒りというものは、彼の中では熱ではなく冷気として現れる。頭が沸騰するわけではない。ただ、視界がすっと絞られ、周囲の喧騒が薄くなり、見るべきものだけが鮮明になっていく。今この瞬間、見えているのは老人の白髪と、震えている肩と、逃げ場のない荷馬車だけだった。
気づけばもう、石畳を踏んで馬車の横に立っていた。
何歩で来たのか、自分でも覚えていない。ただ、そこに立つべきだと思ったから立っていた。それだけのことだ。
御者台の男が目を剥いた。真っ赤だった顔が、今度は別の理由で引きつる。
「あ?何だ、お前。関係ねえだろが。どけ」
声には凄みを出そうとしていたが、どこかにひびが入っていた。ハルタロウの体格を見上げて、一瞬だけ怯んだのが伝わった。それでも虚勢を張るのをやめられないのが、この手の男の性質というものらしい。
「どけって言ってんだろ。俺が誰だか知ってるのか」
ハルタロウは何も言わなかった。
言葉はもう、いらなかった。
静かに右腕を持ち上げた。急ぎもしない。焦りもない。ただ、やるべきことをやるというだけの所作で、拳を馬車の御者台の縁へ向けた。
「待っ――」
男の声が、途中で途切れた。
拳が、御者台の縁をごく軽く叩いた。本当に、ほんのわずかの力だった。加減した。ちゃんと加減した。したつもりだった。
次の瞬間、馬車が横転した。
轍の溝に沿って石畳を滑り、縁石に激突し、巨大な音を立てて横倒しになる。御者台から放り出された男の体が、弧を描いて青空へ高々と舞い上がった。くるりと一回転し、二回転し、南門の分厚い石壁に背中から激突する轟音が、一拍遅れて通りに響いた。馬は無事だった。繋ぎが外れて自由になった馬は、驚いて数歩駆けたあと、近くの露店の前で足を止め、きょとんとした顔で草を食み始めた。
通りに、沈黙が落ちた。
息を呑んだような、分厚い静けさだった。さっきまでの喧騒が嘘のように、南門通りが静まり返る。誰も動かない。誰も声を出さない。ただ、石壁のあたりから、男の情けない呻き声だけがくぐもって聞こえてきた。
それから、どっと歓声が上がった。
「やった!」「ざまあみろ!」「あの乱暴者め、よかった!」
露店の商人が手を叩き、荷物を抱えた通行人が笑顔で顔を見合わせた。先ほど転んだ老婆を助け起こしていた若者が、ハルタロウの方を向いて頭を下げる。
老人の御者が、震える手で手綱を握ったまま、ハルタロウを見ていた。皺の深い顔に、まだ恐怖の残滓が漂っている。しかし目には、じわりと安堵の色が滲み始めていた。
「あ、ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
「お怪我は」とハルタロウは聞いた。
「お、おかげさまで……大丈夫です。荷物も無事で」
老人の声が、少し掠れていた。それ以上何かを言おうとして、言葉にならないようだった。ハルタロウは短く頷いた。それ以上は必要なかった。
踵を返し、石畳を踏んで歩き出す。背後では拍手がまだ続いていた。どこかで子どもの笑い声が弾けた。露店の香辛料の煙が、また鼻先に漂ってくる。
ハルタロウは歩きながら、少しだけ考えた。
今日は、退屈ではなかった。
そして一拍置いて、もう一つ思い出した。屋台のパンを、また買い忘れた。