冒険者ハルタロウの日常/5

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煽り運転野郎、吹き飛ぶ

第5章 挿絵

# 冒険者ハルタロウ、馬車道に立つ

 ギルドへの帰り道は、いつもより遠回りになった。

 西区の市場を抜けてくると、大通りに出る。石畳は昼前の陽光を受けて白っぽく光り、荷を積んだ馬車と人波が混じり合いながら、ゆったりとした流れをつくっていた。焼き栗売りの煙が鼻先をかすめる。子供が笑いながら走っていく。ハルタロウは特に急ぐ理由もなく、人の流れに乗りながら通りの端を歩いていた。

 背後から、音が変わった。

 蹄鉄の音というのは、慣れれば律動がある。一定の間隔でリズムを刻み、石畳の上で跳ねる。しかしその音は、最初から狂っていた。速すぎる。力任せに、距離を縮めてくる。

 ハルタロウは振り返った。

 黒塗りの豪華な馬車が、石畳の上を猛然と突き進んでいた。二頭立ての馬が目を白黒させながら走らされている。御者台の男が必死に手綱を操っているが、馬車の中から野太い怒声が飛んでくるたびに、その手が迷う。幌の小窓から太った中年男が半身を乗り出し、通りを行く人々に向けて叫んでいた。脂肪の乗った頬が、怒りで赤黒く染まっている。

「どけどけどけ!俺様の馬車が通るんだ、さっさと道を空けろ!」

 最初に逃げたのは子供たちだった。甲高い悲鳴を上げながら、母親の腕の中に飛び込む。次に買い物帰りの親子が飛び退いた。バランスを崩した母親がよろけ、子供の手を引いたまま塀際に張りついた。荷物を抱えていた商人が足をもつれさせて転倒した。積んでいた野菜が石畳を転がり、キャベツが一つ、二つ、間抜けな音を立てながら馬車の進路に転がり出ていく。

 ハルタロウは足を止めた。

 馬車が迫る。

 幌の窓の男がハルタロウに気づいた。丸い目が細くなり、すぐに怒鳴り声に変わった。肉付きのいい指が、ぶるぶると震えながらハルタロウを指さす。

「お前もどけ!俺は王都一の商人、ガルバド様だぞ!貧乏冒険者が道を塞ぐんじゃない!さっさとどかないと馬車ごと踏みつぶすぞ!」

 ガルバドという名をハルタロウは聞いたことがなかったが、その叫び方には確信があった。自分が道の真ん中にいることが当然であり、他の全員が端に寄るべきだという、長年かけて育てられた確信だ。御者が何か言おうとしたが、ガルバドが一喝してそれを封じた。馬が嫌がるように頭を振る。それでも手綱は緩まない。

 ハルタロウは動かなかった。

 感情は、静かだった。怒鳴り声を聞いていても、炎が立ち上るような怒りは来ない。ただ、視界の端で、転倒した商人がまだ立ち上がれずにいることが見えていた。散らばった野菜を拾おうとして手を伸ばしているが、馬車の接近に気づいてそれどころではなくなっている。その手の動きが、石畳に止まっていた。

 車輪が石畳を削る音が大きくなった。五メートル。三メートル。

 ハルタロウは左手を、ゆっくりと前に出した。

 特に構えたわけではなかった。大げさな踏み込みも、気合いの声もない。ただ腕を伸ばした。それだけのことだ。馬車の先端の飾り金具に、左の拳がふれた。

 音がした。

 ふれた、というより、世界がその一点で一瞬、息を止めたような感覚だった。

 次の瞬間、豪華な黒塗りの馬車が宙に浮いた。

 二頭の馬は制御を失い、あらぬ方向へ駆け出しながらも、馬具の留め具が外れて馬車本体と切り離された。馬たちは大通りの端でようやく止まり、荒い息をつきながら石畳を蹄で掻いた。馬車だけが、斜め四十五度の角度で大通りを飛翔した。鳥でも飛ぶような緩やかさに見えたのは、ほんの一瞬だけで、すぐに町外れの荷置き場に向かって落下した。乾いた干し草の山に馬車が突っ込む轟音が鳴り響き、盛大な土煙が舞い上がった。干し草が空中に舞い散り、大通りの端まで黄色い粒が降ってきた。御者の男が事前に飛び降りていたのは、ハルタロウも見ていた。石畳に転がりながらも、すぐに起き上がって自分の無事を確かめている。

 干し草の山の中から、くぐもった叫び声が聞こえた。

「ひぃぃぃぃ……」

 大通りが、しんと静まり返った。

 一拍置いて、石畳の上に転がったキャベツだけが、ころりと動いた。

 最初に笑い始めたのは、転倒していた商人だった。野菜を拾いながら、肩を揺らして笑っている。声を殺しているが、体全体が震えていた。隣では塀際に張りついていた母親が、我に返ったように「やった」と小さく言った。その声はほとんど息だけでできていたが、隣にいた子供にはちゃんと届いたらしく、子供が石畳の上で飛び跳ねた。

 それから拍手が始まった。

 最初は二、三人だった。それが波のように広がり、大通りの両側から手を叩く音が重なっていく。焼き栗売りのおじさんが、栗の入った袋を掲げながら親指を立てた。笑い声も混じり始め、誰かが「ガルバドざまあみろ」と言うと、周囲からどっと笑いが起きた。

 ハルタロウは左拳を、静かに見下ろした。

 指の節に、ほんのわずかな熱が残っていた。力の逃し方がうまくいった。馬車を吹き飛ばすつもりはなかったが、方向は制御できた。荷置き場の干し草の山は、着地点として悪くない。ガルバドは無事だろう。少しだけ反省するかもしれない。しないかもしれない。

「今度は加減できた」

 満足げに頷いて、ローブの裾を軽く払った。周囲の拍手と笑いを背中に受けながら、ハルタロウは歩き出した。

 三歩進んで、立ち止まった。

 そういえば、と思った。市場を抜けてくるとき、確かに屋台の前を通った。焼きたてのパンが並んでいた。いい匂いがした。買おうと思った。

 買っていなかった。

 ハルタロウは来た道を振り返り、それから正面を向き直した。この距離から市場に戻れば、また同じ大通りを歩くことになる。

 まあいい、と思った。昼にすればいい。

 干し草の山の方向から、まだガルバドの情けない声が聞こえていた。それが次第に遠ざかりながら、ハルタロウは石畳の上を歩き続けた。