第4章
炎上ジョー、吹き飛ぶ

石畳の上に刻まれた自分の影が、静止する。背後から聞こえていた馬車の蹄鉄の音も、どこかの露店から漂ってくるパンの焼ける匂いも、一瞬だけ遠ざかった気がした。
「おい、お前!そこのデカいの!」
炎上ジョーが指を差してくる。骨張った人差し指が、真っ直ぐにハルタロウへ向けられた。スマートフォンのレンズが、まるで獲物に照準を合わせるように、こちらへ向いた。
「すげえな、その体格。動画映えするぞ。ちょうどいい、お前もドッキリに参加しろ」
断れる雰囲気ではなかった。声に滲む自信は、積み重ねた悪意から生まれる独特の余裕だ。背後のカメラ男たちが、じりじりと間合いを詰めてくる。二人、いや三人。それぞれのレンズが獣の目のようにギラついている。包囲網が静かに狭まる中で、ハルタロウはただ一度だけ深く息を吸い込んだ。
隣を見た。
道端に立ち尽くしている老人が、まだそこにいた。白髪が朝の光の中で細く揺れている。皺の刻まれた両手が、杖の持ち手をぎゅっと握りしめていた。力を込めるほど、指の関節が白くなっていく。その小さな手の震えが、ハルタロウの胸の奥に静かに落ちた。
「その方を、放してください」
自分でも意外なほど静かな声が出た。怒鳴りたかったわけでもない。ただ自然に、言葉が口をついて出た。朝の広場の喧騒の中でも、その声は妙にはっきりと届いた。まるで空気を切り裂くように。
炎上ジョーの目が光った。しめた、とでも言いたげな表情だ。口の端が吊り上がり、前歯が覗く。その笑みには、人の誠実な言葉を見つけるたびに点火する、火種のような悦びがあった。
「おっ、怒った!冒険者が怒ったぞ!」
大げさによろめくように後ずさりしながら、レンズに向かって叫ぶ。芝居がかった身振りで両手を広げ、広場に集まり始めた人々を意識しながら声を張り上げた。
「見てくれよ視聴者!マジもんの冒険者が激怒してるって!再生数やばいことになるな、これ!」
周囲の通行人が立ち止まり始めた。荷物を持ったまま足を止める商人、子供の手を引いたまま視線を向ける母親、パンをかじりかけたまま固まる若者。カメラの数が増える。それぞれのレンズが、この広場を切り取ろうとしていた。炎上ジョーはその注目を、燃料のように吸い込んで膨れ上がっていくようだった。さらに声を張り上げ、一歩踏み出し、老人の腕を乱暴につかんだ。
老人の小さな体が引きずられ、ハルタロウの目の前に引っ張り出される。
「ほら、守りたいんだろ?守ってみせろよ、冒険者さんよ。お前が怒鳴れば、このばあさんも泣くかもしれないぞ。泣いたら百万再生は堅いな!」
ハルタロウの眉が、ほんの少し動いた。
怒りという感情は、彼の中では不思議と静かな形をしている。熱くなるのではなく、冷えていく。沸騰するのではなく、凪ぐ。炎上ジョーの笑い声が耳に届くたび、広場の雑音が遠ざかっていくのを感じた。見えているのは、老人のつかまれた腕に食い込む指の白さだけだった。
「冒険者風情が、俺の邪魔を――」
言い終わらせなかった。
右拳が一閃した。振りかぶりも、助走もなかった。ただ腕が動いた。それだけのことだった。
炎上ジョーの体が宙を舞った。広場の石畳から完全に浮き上がり、くるりと一回転して、石壁の手前に設置された木製のベンチの脇へと落ちていく。スマートフォンが手を離れ、緩やかな弧を描いて飛んでいった。石畳を転がる乾いた音が、広場の端まで届いた。どこかで陶器が割れるような音もした。スマートフォンの画面は、日の光を反射する間もなく、綺麗に砕けていた。
しんと静まり返った。
さっきまで喧騒に満ちていた広場が、嘘みたいに静かになった。カメラを持っていた男たちは、誰一人として動かない。レンズを向けたまま、石像のように固まっている。炎上ジョーは倒れたまま、ベンチの脚に手をかけようとしているが、足腰に力が入らないようだった。
やがて、誰かが手を叩いた。
最初の一人が叩けば、次の一人が続いた。波紋のように広がっていく拍手が、石畳の広場に響き始めた。商人も、母親も、パンを持ったままの若者も、思い思いの表情で手を叩いている。ほっとしたような笑顔の人間もいれば、ただただ呆気に取られている顔もあった。
老人がハルタロウの袖をそっと引いた。
見下ろせば、先ほどまで震えていた手が、柔らかくローブの袖をつかんでいる。しわの深い顔に、安堵の色がゆっくりと広がっていた。目尻に光るものが見えた気がした。
「ありがとうございます」
「いえ」とハルタロウは言った。
それ以上の言葉は思いつかなかったし、必要もなかった。ハルタロウは老人が安全な場所へ歩き出したのを確認してから、踵を返した。石畳を踏む足音が、静かになり始めた広場に一定のリズムを刻む。背後では、まだ拍手が続いていた。
淡々と歩き出しながら、彼は思った。
退屈な朝だったが、悪くない締めくくりだった。それから、一拍置いて、もう一つ思った。朝食のパンを買い忘れた。