冒険者ハルタロウの日常/7

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「煽り運転の悪党、一撃で沈む」

第7章 挿絵

 王都の大通りは、朝から活気づいていた。

 荷車を引く老商人の皺だらけの背中が、朝日を受けてゆっくりと動く。買い物籠を抱えた主婦たちが露店の前で値段交渉に精を出し、職人が石畳に膝をついて看板の立て掛け方を調整していた。焼きたてのパンの香りが、どこからともなく漂ってくる。いつもの朝だった。誰もが自分の時間の中で、思い思いの一日を始めようとしていた。

 ハルタロウは昨日から持ち越しになっている朝食のパンを探しながら、その人の波をゆったりと歩いていた。昨日も買いそびれた。一昨日も確か何かの用事で忘れた。冒険者としての自分は大した腕を持っているというのに、パン一つ買いに行けないとは情けない話だ、と思いながら、あまり情けなくも感じていない。日の光を浴びながら、目当ての露店がないかと視線を左右に動かした。

 轟音が響いたのは、そのときだった。

「どけどけどけェ!貴族様のお通りだぞ!」

 声が来た方向を見た。大通りの向こう端から、黒塗りの大型馬車が猛然と走り込んでくるところだった。幌には金刺繍の紋章。車輪が石畳を叩く音が、骨の底まで響くような重さで迫ってくる。御者台には赤ら顔の大柄なおっさんが陣取り、革鞭を頭上で大きく振り回しながら、通行人に向かって怒声を浴びせていた。その顔は、怒っているというよりも楽しんでいた。踏み荒らすことの気持ちよさを、皮膚全体で味わっているような、鈍い満足感が張り付いていた。

 馬車は歩行者など眼中にない。路肩で荷物を整えていた老商人の荷車に接触した。がらりという大きな音とともに、積み上げられた荷物が石畳に散乱する。陶器の小瓶が砕け、干した薬草が風に舞い上がった。老商人は前につんのめり、膝をついた。

「ちゃんと端を歩かんか、平民どもが!」

 おっさんは笑い声を上げながら、馬に向けてさらに鞭を振るった。悲鳴が上がった。子供の手を引いていた若い女性が、石塀際まで飛び退いて子供を抱き込む。子供は何が起きたか分からないまま、母親の胸で泣き声を上げた。露店の商品が馬車の風圧で倒れ、通りに積み上げた反物が勢いよくほどけていく。馬車はそのどれにも目もくれず、石畳の上を征服するように突き進んでいた。

 ハルタロウは立ち止まった。

 路上に散らばった荷物が目に入った。次に、膝をついた老商人の震える手が目に入った。石畳に投げ出された陶器の欠片が、朝の光を受けて白く光っていた。腕の中で声を上げる子供と、子供をきつく抱きしめながら唇を噛んでいる女性が目に入った。

 怒りは、熱くなる形ではやってこない。ハルタロウの内側では、いつもそれは静かに冷えていく。沸騰するのではなく、水が氷に変わるように、感情が澄んで固まっていく。おっさんの笑い声が耳の奥でぐるぐると回りながら遠ざかり、代わりに、石畳を踏む自分の足音だけがはっきりと聞こえ始めた。

 馬車が目の前を通り過ぎようとした瞬間、ハルタロウは無言で一歩踏み出した。大通りの中央に出た足が、石畳を静かに踏みしめる。

「あン?何だ貴様、邪魔を――」

 おっさんの声が、途中で消えた。

 右拳が、馬車の側面に触れた。ただそれだけのことだった。振りかぶりも、気合の声も、予備動作の一切もなかった。ただ腕が自然に前へ出て、黒塗りの木板に触れた。指の関節が、かすかに接触した感触を伝えてきた。それ以上でも、それ以下でもなかった。

 次の瞬間には、馬車が消えていた。

 宙に浮いた、と気づくより先に遠ざかっていた。大型の馬車が、くるくると回転しながら大通りの彼方へと弧を描いて飛んでいく。その奇妙に優雅な放物線の先、王都の外縁に並ぶ石塀へと吸い込まれるように落ちていった。どん、という重い衝撃音が、一拍遅れて耳に届く。石塀の一部が崩れる音が続き、砂埃がもうもうと立ち上がるのが遠目に見えた。御者台から放り出されたおっさんが、塀の向こう側で土煙を上げながら転がっていくのが見えた。鞭だけが、宙にふわりと舞い上がってから、ゆっくりと石畳に落ちた。

「また加減を誤った」

 ハルタロウは静かに呟き、右手を自分の目の前に持ち上げた。げんこつを握り、開き、また握る。どこにも傷はない。相変わらず何の変哲もない、自分の右手だった。

 大通りが、静まり返った。

 商人も、主婦も、職人も、誰一人として動かなかった。開いたままの口が、そのまま固まっていた。鳥の声だけが、どこかの屋根の上から聞こえた。それからゆっくりと、誰かが息を吐いた。

 最初に動いたのは、老商人だった。石畳についていた手をゆっくりと持ち上げ、膝を伸ばして立ち上がる。散らばった荷物を一瞥してから、ハルタロウの方を向いた。その皺だらけの顔に、深いため息とともに笑みが広がっていった。腰を深く折り、長い間、頭を下げたままでいた。

 それが引き金になった。

 あちこちから拍手が起き始めた。最初は恐る恐るというように小さかった音が、みるみるうちに膨らんでいく。反物をほどかれた露店の商人が笑いながら手を叩いた。通りの端で子供を抱いていた女性が、目元をぬぐいながらその輪に加わった。子供は涙の乾かぬ顔のまま、母親の顔を見てつられるように声を上げて笑い始めた。

 歓声が、石畳の通りに満ちていた。

 ハルタロウは踵を返した。

 そういえばパンを買っていない。今日こそは買って帰らなければ、と思いながら露店の並びを見渡すと、焼き立てのパンを積んだ籠がちょうど目に入った。ようやく目当てのものを見つけた、という程度の、静かな満足感が胸の中に広がった。石畳を踏む足音が、賑わいを取り戻した大通りの喧騒に、ゆっくりと溶けていった。

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