宅建恋活!不動産学園/1

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朝寝坊と運命の講師

第1章 挿絵

# 宅建、始めちゃいました

 朝のアラームを三回も無視した結果、私・花音(かのん)は入学初日から猛ダッシュする羽目になった。

 四月の空気はまだひんやりしていて、桜の花びらが風に舞うのも目に入らないくらい、ただひたすら足を動かす。スカートの裾がばたばたはためいて、肩にかけたバッグが背中を叩くたびにテキストがずしっと重さを主張してくる。

「なんで私、ここにいるんだろ……」

 校舎の廊下を曲がり、教室の扉を勢いよく引いた瞬間、十数人の視線がいっせいにこちらへ向いた。息を切らしながら滑り込んだ私に、教室はしんと静まり返っている。みんなすでにテキストを開いたり、スマホのメモアプリを起動させたりして、やる気というオーラをこれでもかと発散させていた。窓から差し込む朝日が白い机を照らして、なんだかすごく真面目な空間が完成している。

 席についた私は、バッグからテキストを取り出しながらこっそり深呼吸した。表紙には『宅地建物取引士 完全攻略テキスト』とデカデカと書いてあって、見るだけでため息が出る。こんな分厚い本、本当に読み終わる日が来るんだろうか。

 自己紹介タイムが始まると、キャラの濃さに一気に度肝を抜かれた。

「僕は城崎蓮。宅建を取って、将来は不動産業界を革命するつもりです」

 黒髪をさらっと横に流した男子が、まっすぐな目で言い切った。革命、って。朝イチにそのワードが飛んでくるとは思わなくて、思わず瞬きしてしまった。でもその顔には一ミリの冗談もなくて、なんというか、妙に迫力があった。

「涼、です。藤堂涼。うちが三代続く不動産屋なんで、まあ必然的にって感じで」

 隣の席のショートカットの女子は、さらっと言ってのけた。三代続く不動産屋。その一言の重さに私はちょっと圧倒されながら、彼女が「涼ちゃん」と呼ばれるタイプだということだけ直感で理解した。

「川端麻衣といいます。独学で一通り予習してきたので、授業が楽しみです」

 にこっと笑顔で爆弾を投下したのは、眼鏡をかけた小柄な女子。その言葉が着弾した瞬間、教室のあちこちから「え」とか「マジか」とかいう呟きが漏れた。予習、一通り。この分厚いテキストを入学前に。

 そして私の番が来た。

「え〜と……」

 十数人の視線が集まるなか、私は正直に言うことにした。

「親に言われて来ました」

 どこかで苦笑いが聞こえた気がした。ていうか、絶対聞こえた。でも嘘をついても仕方ない。お母さんに「就職に有利だから」と背中を押されて——というか半ば強制されて——ここに座っているのが私の現実なのだ。

 午前中の授業は、まだなんとなく雰囲気を掴む感じで終わった。でも私の中にはずっと「なんでここにいるんだろう」という問いがぐるぐると渦を巻いていた。

 運命は、午後に訪れた。

 昼休みが終わって教室に戻ると、黒板の前に見慣れない人物が立っていた。

 スーツの着こなしが、とにかく絵になる人だった。濃紺のジャケットに白いシャツ、細身のスラックス。三十代くらいだろうか、髪は短く整えられていて、教壇に教材を置くその所作がなんというか、静かに洗練されていた。教室がざわついていたのに、その人が正面を向いた瞬間、自然と声が収まっていった。

「権利関係を担当する桐島です」

 低くて落ち着いた声。その一言だけで、教室の空気の質がすっと変わった気がした。なんだろう、この感じ。先生が教壇に立っているというより、ステージに立っているみたいな、不思議な存在感だった。

 視線が合った気がして——多分気のせいだけど——私は思わず背筋を伸ばしていた。

「宅建は恋愛と同じです」

 先生は黒板を向き、チョークを走らせた。白い文字で『権利関係』と書かれていく。

「相手を深く理解することから、すべては始まる」

 意味が、正直よくわからなかった。宅建と恋愛が同じ? でもなぜか、するっと頭の中に入ってきた言葉だった。ノートの端っこにそっと書き写す。

 ただ、授業はすぐに難解になっていった。

「物権は、すべての人に主張できる権利です。対して債権は、特定の人に対してのみ主張できる」

 板書が増えるたびに、私のノートには謎の記号みたいな言葉が並んでいく。「物権」「債権」「抵当権」「地上権」。呪文みたいな単語が波のように押し寄せてきて、ペンを持つ手が追いつかない。頭の中では「これは一体なんの話をしているんだ」という声が繰り返されていた。

 そのとき、隣からノートがさりげなくスライドしてきた。

「ここ、所有権と占有権の違いがポイントだよ」

 城崎蓮くんが、自分のノートを見せながら小声で言った。びっちりと整理されたノートには、図解と色分けと矢印が駆使されていて、私のぐちゃぐちゃな走り書きとは別次元の完成度だった。

「あ、ありがと……」

 思わず声が小さくなった。さっき「業界を革命する」と言っていた人が、こんなにちゃんとノートを作っているのか。革命って、こういう地道なことの積み重ねの先にあるのかもしれない、なんてことを、ぼんやりと考えた。

 放課後、蓮くんに「図書室行かない?」と誘われた。断る理由もなくて、なんとなくついていくと、広い窓から夕方の光が差し込む静かな空間に、私たちはテキストを広げて向かい合っていた。

 ページをめくるたびに、知らない言葉が増えていく気がした。法律の条文、数字、例外規定。窓の外では桜の木が風に揺れていて、その穏やかさと私の頭の中のカオスが、なんだか妙にちぐはぐだった。

「やっぱ無理かも、これ……」

 言葉が自然に口から零れ落ちた。独り言のつもりだったけど、蓮くんがちらっと顔を上げた。でも何も言わなかった。ただまた自分のノートに目を戻しただけで、その沈黙が不思議と責めるような感じじゃなかった。

 先生のあの言葉が、また頭の中をよぎった。

——*相手を理解することから、すべては始まる。*

 そうか。理解、か。

 今日初めて会ったこの分厚いテキストのことを、私はまだなにも知らない。法律のことも、不動産のことも、なにひとつ。でも知らないまま「無理」って言うのは、会ったばかりの人を「嫌い」って決めつけるのと同じかもしれない。

 なんか、それはちょっと違う気がした。

「……まあ、ちょっとだけ、やってみるか」

 声に出すと、なんだか本当になれる気がしてきた。不思議なもので、言葉にするとすこしだけ覚悟が生まれる。

 テキストをもう一度開く。ページは白くて、まだ何も染まっていない。今日の私の書き込みはぐちゃぐちゃで、全然綺麗じゃないけれど、それでいいかと思った。最初から綺麗に理解できる人なんて、麻衣さんみたいな特別な人くらいだろう。

 窓から見える桜が、夕風にゆっくりと揺れていた。花びらが一枚、ひらりと空を渡っていく。

 これが始まりだった。何の確信もないけれど、そう思った。