第16章
家という温もり

# 第16章「家という名前の場所」
川沿いの道を歩いてたら、いつの間にか景色が変わってた。
コンクリートの壁じゃなくて、木でできた柵。石畳じゃなくて、柔らかい草が足元を覆ってる。肉球の感触が、さっきまでと全然違う。冷たくなくて、ちょっとだけ弾力があって、なんかくすぐったい。わたしは立ち止まって、鼻をひくひくさせてみた。
花の匂い。土の匂い。それから——なんか、あったかい匂いがした。
煮込んだ何か、みたいな。お腹の奥がきゅうって鳴った。ゴミ箱で食べてたものとも、茶トラの猫に分けてもらった魚の欠片とも違う。もっとちゃんとした、ご飯の匂いだ。
住宅街だ。初めての場所だ。
小さな家が何軒も並んでて、どの家にも庭がある。庭には自転車が停まってたり、洗濯物が干してあったり、プランターに花が植えてあったり。夕方の光が西から射し込んで、白い壁がオレンジ色に染まってた。
おっかなびっくり、壁沿いをそろそろと歩いてたら——。
「あ!」
甲高い声がした。わたしは思わず身体を縮めた。逃げるか、それとも。
でも振り返って見ると、声の主は子どもだった。白い柵の向こうに、女の子が二人、こっちをじっと見てた。一人は——見覚えがある。ランドセルを背負ってた、あの子だ。公園でふわふわのパンをくれた子。ユーキ、だったかな。その隣には、もう少し背の高い子が立ってた。二人ともまん丸い目で、わたしを見てる。
「ユーキ、この猫、また来た!」
背の高い子——ヨーコ——が興奮したような声で言った。また、って言ったってことは、ユーキがわたしのことを話してたのかな。公園で出会ったことを。
ユーキがゆっくりと柵のラッチを外して、庭に出てきた。しゃがみこんで、わたしの目線に合わせて、そっと手を伸ばしてきた。
「迷子だよね。……ちょっと濡れてる。ひとりなの?」
ユーキの声は、やわらかかった。クロの声みたいに低くなくて、お母さんの声とも違う。でも、怖くない。まったく怖くない。逃げなくていい気がした。わたしはそっと、伸ばされた手に鼻を近づけた。石けんの匂いと、さっきのご飯の匂いが混ざってる。
「触れる、かな……」
ユーキがそっと呟いて、指でわたしの頭をなでた。
あ。
温かい。
クロの毛に寄り添った温かさとも、お母さんの舌がなめてくれる温かさとも違う。もっと大きくて、ゆっくりした温かさ。背中から、全身にじわじわ広がってくる。わたしはしばらくそのまま、動けなかった。
「なでさせてくれてる!ヨーコ、見て!」
「わかった、わかった。声でかい」
ヨーコが苦笑いしながら近づいてきた。そっと膝をついて、わたしの毛並みを眺めた。「三毛猫だ。きれいな模様してるね」
きれいって言われたの、初めてかもしれない。クロに教わったことのどこにも、そんな言葉はなかったから。
気がついたら、家の中にいた。
どうやって入ったのか、正直あまり覚えてない。ユーキに連れられて、気づいたら玄関を通り過ぎてた。最初は怖くて、部屋の隅っこで丸くなってたけど——床が温かかった。コンクリートじゃない。冷たくない。
ユーキがどこかから持ってきてくれたクッションに乗ってみたら、ふわふわだった。肉球が沈み込むくらい、やわらかい。こんな感触、生まれて初めてだ。段ボール箱も悪くなかったけど、これとは全然違う。全身の力が、するすると抜けていく感じ。
それから、ご飯が来た。
白いお皿の上に、なんか茶色いやつ。鼻を近づけると、さっきの匂いだ。食べてみたら——すごかった。舌の上でとろけるみたいな、本物のご飯だ。ゴミ箱の食べ物とは比べものにならない。泥がついてなくて、酸っぱくなくて、ちゃんとあったかい。目の奥がじんってした。なんでだろう。
「全部食べてる!」
ユーキが嬉しそうに言った。ヨーコが「よかった」って頷いた。
わたしはそのまま、クッションの上でうずくまった。お腹がいっぱいで、身体が温かくて、それだけで眠たくなってくる。濡れた毛並みも、温かい部屋の中でだんだん乾いてきた。自分の毛が黒とオレンジと白のモザイク模様だって、しばらく忘れてた気がする。こんなに毛並みを気にする余裕がなかったから。
夜になって、庭に出た。
ユーキが少し心配そうに見てたけど、大丈夫、って気持ちで振り返って、それからひとりで庭の隅へ歩いた。草のにおいと夜の空気が、鼻をすっと通り抜けた。
月が見えた。
丸い、しんと静かな月だ。雲ひとつない夜空に、ぽっかり浮かんでた。川沿いの夜も、段ボール箱の隙間から見た夜も、ずっと雨か曇りだったから、こんなにはっきりした月を見るのは久しぶりだ。
わたしはしばらく、月を見上げてた。
お母さんも、今頃この月を見てるかな。どこかの路地裏で、あるいは川沿いの草むらで、同じ月を見上げてるかな。わたしのことを、探してくれてるのかな。それとも——。
*生き残ることが全てだ。*
クロの声が、頭の中に蘇った。あのぼろぼろの灰色の毛並みと、折れた耳と、黄色い目。教えてもらったこと全部が、わたしをここまで連れてきた。
お母さんを探すって決めてたのに。でも今、わたしはここにいる。
それがどういう意味か、ちゃんとわかってた。川沿いで聞いた話も、茶トラから教えてもらった情報も、何もかもが途中で終わったわけじゃない。お母さんはどこかで生きてる。それだけは信じてた。でも今この瞬間、わたしの身体はここに根っこを張りたがってる。温かいご飯と、ふわふわのクッションと、ユーキとヨーコのやわらかい手が、わたしの中の何かをゆっくり変えてた。
大冒険は、終わったんだ。
終わって、次が始まるんだ。
「おやすみ、お母さん」
わたしはそっと月に向かって呟いた。草の上に寝転がって、月を眺めながら、しばらくじっとしてた。風がすっと通り過ぎて、庭の花がさらさらと揺れた。どこかの家の窓から、明かりが漏れてた。
きっとここから、新しい話が始まる。
わたし、メルの話が。