第1章
初めての海外ミッション

# グローバルビジネス・オデッセイ
## 第一章 東京からの出発
東京・丸の内。高層ビルのガラス張りの壁面が朝の光を乱反射させ、スーツ姿の人波が駅の出口から吐き出されては散っていく。その流れの中をやや早足で歩きながら、田中翔太は右手にコーヒーカップ、左手にスマホを持ち、受信箱の通知件数を確認した。未読メール、四十七件。月曜の朝にしては少ない方だ、とため息をつく。
グローバルトレード営業企画部、二十八歳。TOEIC七百五十点は社内では中の上くらいの成績で、上司には「まあ使えるな」という顔をされる程度の数字だ。でも翔太が一番気にしているのはスコアじゃない。社内の名簿をスクロールするたびに目に入る「海外出張経験」の欄。自分の名前の横には、いつもポツンと「なし」の二文字が並んでいる。それが翔太にとって、じわじわと胸の奥を刺してくるトゲみたいなものだった。
二十三階のオフィスに着くと、窓の外には皇居の緑と、その向こうに霞む首都高の陸橋が見えた。翔太はパソコンを立ち上げ、コーヒーを一口すすって、今日も大量のメールと格闘を始めた。英語の文章を一行ずつ読み返して、辞書アプリを開いて、また読み返す。この繰り返し。脳みその変換回路がほんの少し焼き切れかけているような感覚は、もう日常になっていた。
「田中くん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは秘書の村田さんだった。にこやかな笑顔だけど、目が笑っていない。呼ばれたのが「会議室B」と聞いて、翔太は静かに緊張した。あそこは役員が使う部屋だ。
ドアを開けると、窓際の席にCEOの鈴木美咲がすでに座って待っていた。四十代前半、ショートヘアにシャープな眼鏡。業界では「切れ者」で知られる彼女が、タブレットの画面を翔太に向けながら、まっすぐ目を合わせてきた。
「シンガポール発のテック企業、NexBridgeと契約交渉を進めたいの」
声にはまったく余分な感情が乗っていない。それがかえって重かった。
「担当、あなたにお願いしたい」
翔太の心臓が、一瞬だけ大きく跳ねた。喉の奥で何かが詰まる感じ。期待と不安が同時に押し寄せてきて、どちらが先に来たのかよくわからなかった。「わかりました」と答えた自分の声が、やけに遠くに聞こえた。
席に戻ると、タイミングを見計らったように、NexBridgeからメールが届いていた。英語の長文。翔太は画面に顔を近づけ、一文ずつ丁寧に読んでいく。読む。また読む。意味はだいたいわかる。でも返信の文面を考え始めたとたん、指が止まった。日本語なら自然に出てくる「どうぞよろしくお願い申し上げます」みたいな表現を英語に変換しようとすると、急に言葉が重くなる気がして。
「リアム、このメール、返信どう書く?」
隣の席のリアム・木村は、画面をさらっとのぞいて、二秒も経たないうちに言った。「シンプルでいいよ。まず *confirm the details* して、次に *move forward* したい意向を伝えれば十分。ダラダラ書くと逆に怪しまれる」
リアムは米国育ちの帰国子女で、英語は完全に母国語レベルだ。日本語も流暢なのに、なぜかビジネスメールの話をするときだけ少し楽しそうな顔をする。翔太はそれが少し羨ましいと思いつつ、アドバイス通りに日本式の丁寧すぎる文章をざくざくと削り落とした。残ったのは三行。書いて、読み返して、もう一度読み返してから送信ボタンを押す。その数時間後、「Great, let's proceed!」という一文が返ってきたとき、翔太は思わず小さくガッツポーズをした。窓の外の丸の内の景色が、なんとなく少しだけ明るく見えた。
でも、喜びはそう長くは続かなかった。
翌朝、NexBridgeのCOOから追加のメッセージが届いた。「ニューヨークの投資家との面談に同席してほしい」。シンガポール経由でニューヨークへ。翔太の人生で初めての海外出張が、いきなりニューヨークとシンガポールのセットで降ってきた。
上司への報告、フライトの手配、パスポートの確認、経費申請の書類——日本式の「ホウレンソウ」を一つひとつ丁寧にこなしながら、翔太はふと気づいた。向こうはまるで「明日ランチどう?」くらいのノリで「明日返事くれ」と言ってくる。こっちが稟議書を回している間に、向こうはもう次の話を進めている。このスピード感の非対称さ、これが噂に聞く文化ギャップってやつか、と翔太は少し苦笑いした。焦りと、でも同時にどこかワクワクするような感覚が、胸の中で混ざり合った。
出発前夜、翔太はベッドの上に広げたスーツケースに荷物を詰めながら、リアムが昼間にさらっと言った一言を思い出していた。「海外ビジネスでは、遠慮は武器にならないよ」。
遠慮は武器にならない。
翔太は折りたたんだシャツを鞄に押し込みながら、その言葉を頭の中で転がした。日本のオフィスでは「出すぎた杭は打たれる」をずっと意識してきた。でも向こうの土俵では、引いたら負けなのかもしれない。それはまだ実感としてはわからないけれど、なんとなくそういうことなんだろうという予感はあった。
翌朝、成田空港は旅立つ人と見送る人の熱気で満ちていた。翔太は搭乗ゲートの前で立ち止まり、深く息を吸った。ターミナルの空気は少し乾いていて、遠くから航空機のエンジン音が低く響いてくる。不安は消えていない。英語のプレゼンでしくじる自分の姿も、会議室で固まる自分の姿も、頭の片隅でちらついている。でも同時に、ここが何かの始まりなんだという感覚も、確かにあった。
ゲートをくぐりながら、翔太はスマホをポケットにしまった。画面の中のメールはもう少し待ってもらっていい。今は、自分の足で踏み出すことだけ考えよう。世界が広がり始める場所に、翔太は一歩を踏み出した。