理不尽トラック帝国/1

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壁が流動化した木曜日

第1章 挿絵

# 第一章 理不尽な朝が来た

田中ケンジの朝は、だいたい七時に始まる。

カーテンの隙間からねじ込んでくる朝日が顔に当たって、ケンジは毎朝うっすら目を開ける。今日も雲一つない快晴だった。少なくとも、空が青かった時間帯は。

リビングに下りると、テーブルの上にはいつものコーンフレークが待っていた。母がフライパンでベーコンを焼いていて、じゅうじゅういう音と香ばしい匂いが漂っている。父は新聞を広げて仁王立ちしていた。椅子に座ればいいのに、と毎朝思うけれど、ケンジはもうそれを指摘しない。

スプーンを手に取り、コーンフレークをひとすくいした、その瞬間だった。

スプーンが、台所の壁にすっぽりと刺さった。するりと、まるで豆腐に箸を立てるみたいな手応えで、壁の中に。しかも貫通して、向こう側――つまり外――まで。

ケンジはしばらく手を宙に浮かせたまま、壁に突き刺さったスプーンの柄を眺めた。

「あ、壁がまた流動性失ってる」

母がフライパンを揺らしながら、さらっと言った。振り向きもしない。

「そういう時間帯だからな」

父は新聞から目も上げず、ページをめくった。

ケンジは一度だけスプーンを引き抜こうとしたが、びくともしなかった。固まってしまったらしい。仕方なく、箸を取り出してコーンフレークを一粒ずつつまみながら食べた。牛乳がこぼれそうで不便だったが、今更文句を言う気にもなれなかった。この家でスプーンが壁に刺さるのは、今月で四度目だ。

登校の途中、どこかの家の庭先でタヌキが本を読んでいたが、ケンジは立ち止まらなかった。もう慣れた。

学校に着くと、友人の佐藤が廊下をのっしのっし歩いていた。正確には、下半身がのっしのっし歩いていて、上半身だけが逆方向に、つまりケンジのほうへと滑るように移動してきた。

「佐藤、上半身どこ行くの」

聞いてから、ケンジは少し後悔した。聞かなければよかった気がした。でもやっぱり聞かずにはいられない。

「気圧のせいらしい」

答えたのは下半身のほうだった。腰のあたりから声が出ていた。なんで下半身に声帯があるんだ、とケンジは思ったが、声に出さなかった。

ちょうどそこを通りかかった担任の原田先生が、いつものくたびれたジャケット姿で、足を止めることもなく言い残していった。

「そうそう、今日は上空の気圧が不均一だから気をつけてね」

「気をつけてって、どう気をつけるんですか」

ケンジが聞いた時にはもう、先生は職員室の角を曲がって消えていた。廊下に残されたのは、上半身と下半身に分かれたまま別々の方向へ進んでいく佐藤と、ぽつんと立ったケンジだけだった。説明になっていなかったが、誰も指摘しなかった。指摘するだけ無駄だということを、この学校の生徒全員が経験で知っていた。

朝礼が始まった。全校生徒がグラウンドに並んで、校長の話を聞く時間だ。

今日の校長は開始二分こそ「最近の若者の礼儀について」を語っていたが、五分が経過したあたりで、どこかのタイミングで「トマトというのは実は果物でして」という話にシフトしていた。いつ切り替わったのかは誰も把握していなかった。

生徒たちはしん、と静かに聞いていた。熱心にメモを取っている子すらいた。

ケンジだけが口をぽかんと開けて、校長と生徒たちを交互に見比べていた。俺だけおかしいのか。それとも俺以外がおかしいのか。正直もうどっちでもいい気がしてきた。

放課後、ケンジが教室で帰り支度をしていると、窓の外から低いエンジン音が近づいてきた。重厚で、地面がかすかに震えるような音だった。

黒塗りのトラックが、廊下側の壁を音もなく突き破って教室に入ってきた。ガラスが飛ぶわけでも、壁が崩れ落ちるわけでもなく、ただ巨大な車体がすっと壁を通り抜けて、教室の中を横切り、反対側の壁を突き破って出ていった。轍さえ残さずに。

残ったのは、ほんのかすかなエンジン音の残響と、カーテンがそよいだ気配だけだった。

クラスが、少しだけざわついた。

「あ、木曜日じゃん」

窓際の席の女子が、ルーズリーフに何かを書きながらごく自然に呟いた。それで会話は終わった。ほかの生徒たちも、すっと視線を手元に戻した。ケンジだけがしばらくトラックが消えた壁の跡を見つめていたが、壁はもう何事もなかったように元通りになっていた。

帰り道、夕暮れが町を橙色に染め始めたころ、ケンジは親友の鈴木に打ち明けた。

「なんか、この町おかしくない?」

言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。今更すぎる発言だと自分でも思う。でも誰かに言わないと、自分の感覚がどんどん信用できなくなりそうで怖かった。

鈴木は特に驚いた様子もなく、空を見上げながら答えた。

「気にすんな。明日はもっと変だ」

慰めにも何にもなっていなかったが、鈴木の声はなぜか妙に落ち着いていて、ケンジはそれだけで少し肩の力が抜けた。

深呼吸した。空気は普通においしかった。でも、さっきから空が微妙に紫だった。夕焼けでも曇りでもなく、ただ紫だった。

その夜、十一時ごろ、近所でドカン、という音がした。

ケンジが窓から外をのぞくと、隣の空き地がほんのり燃えていた。炎は思ったよりおとなしく、キャンプファイヤーくらいの規模だった。特に理由はなかった。そろそろ爆発の番だっただけだ。消防車は来なかった。来る必要がなかったから。火はしばらくして、誰も何もしないうちに自然と消えた。

ケンジは布団に潜り込みながら、天井を眺めて呟いた。

「この町で普通に生きるって、何なんだろう」

答えは返ってこなかった。天井のシミが少しだけ動いた気がして、ケンジは目を細めた。でも確かめるのが少し怖くて、そのまま目を閉じた。

明日はもっと変だ、と鈴木は言った。

そうか、じゃあまあ、いいか。

ケンジはそう思いながら、眠りに落ちた。